秋が深まり、街路樹が色づき始めた頃。
私の生活は、綺麗に二つに分断されていた。
表の顔は、過ちを犯した彼氏を許し、再構築に励む健気な女子大生。
裏の顔は、姉の犯した罪を代わりに償うという名目で義兄の寝室に入り浸り、獣のように交わり、禁忌の快楽に溺れる背徳の雌。
お義兄様と交わしたルールはもう、意味をなさなくなっていた。
「結愛、寒くない? ホットココア買ってきたよ」
大学のベンチ。
奏多が私の隣に座り、温かいカップを手渡してくれる。
あの浮気騒動以来、奏多は腫れ物に触るように私に優しい。
記念日でもないのにプレゼントをくれたり、こまめに連絡を寄越したりして、信頼を取り戻そうと必死だった。
肉体関係は、奏多を許した夜以降、一度も持っていない。
奏多から求められることもあったが「あの光景を思い出すから」と言って拒否した。
奏多が肉欲をどう処理しているのかは知らない。
浮気していようと風俗に通っていようと、気にならなかった。
彼とは惰性で付き合っているだけ。
私の気持ちは、もはや完全にお義兄様に傾いていた。
「ありがとう、奏多」
私は模範的な彼女の笑顔で受け取った。
彼が私の肩に手を回す。
柔軟剤のフローラルな香り。
清潔で、若々しく、とても人工的な匂い。
私の心臓は一つも跳ねなかった。
この関係は精巧に作られた造花だ。
お互いがこのまま継続する限り枯れることはないけれど、決して生きた香りもしない。
奏多と別れたその足で、私はお義兄様の待つホテルへと向かう。
ドアを開けた瞬間、強烈な抱擁と深い口づけが私を襲った。
「ん……っ、んむ、お義兄さ、んッ……!」
消毒液と、男の汗と、タバコの匂い。
その生々しい体臭を肺いっぱいに吸い込んだ瞬間、私の身体のスイッチが入る。
「遅いぞ、結愛。待ちくたびれた」
「ごめん、なさいっ、会いたかった!」
私たちは服を着たまま、もつれ合うようにベッドへ倒れ込んだ。
言葉なんていらない。
甘い愛の囁きなど私たちの関係には不要だ。
雄と雌が本能的に求め合う、面倒な手続きなど不要な自然の儀式なのだから。
お義兄様の手が所有印を押すように強く肌を掴み、痛みと快感を同時に与えてくる。
私もまた、彼の背中に爪を立て、噛みつかんばかりに唇を吸った。
(好き……大好き、お義兄様……)
喉元まで出かかった言葉を、熱い喘ぎ声と一緒に飲み込んだ。
言ってはいけない。
言えば、賭けは私の負けになり、私は一生、姉の代用品として彼に縛られてしまう。
正直、それでもかまわない。
むしろ、そうして欲しい。
でも!
お義兄様には医師として再起してほしい。
そのためには、私はあくまで身体だけの都合のいい女でいなければならない。
お義兄様もまた、何も言わずに私を貫く。
その激しくも切実なピストンは、言葉以上に雄弁に私を求めていた。
この、泥臭く、湿度の高い情事こそが、私たち二人の自然なありようだった。
◆
何度も身体を重ね、どうしようもないまま冬を迎えた。
いつものような雄と雌の激しい情事を終えたあと、お義兄様が告げた。
「医師としてやり直すために、アメリカに留学する」
そして、アメリカの大学病院からの留学許可証を見せてくれた。
彼が医師として完全に復活し、世界へ羽ばたくための切符だった。
もちろん、私は笑顔を見せて喜ぶふりをした……素晴らしく人工的な、満面の笑み。
帰宅して、浴槽に浸かりながら大声を上げて泣いた。
お義兄様が自分でそう決意してくれたことが、とても嬉しかった。
私の力で、お義兄様を癒すことができのだ。
でも、お義兄様に会えなくなることが、それ以上に辛く悲しかった。
出発の日。
成田国際空港の出発ロビー。
お義兄様はロングコートを着こなし、かつての精悍な顔つきに戻っていた。
刺されて荒んでいた頃の面影はもうない。
姉との離婚も成立し、女遊びにも嵌まらず、心身がすっかり元気になっていた。
私の身体が彼を癒やし、ここまで回復させたのだ。自分が誇らしかった。
お義兄様との別れを前に、ただひたすら、そう自分に言い聞かせ続けた。
「……結愛」
搭乗手続きを前に、お義兄様が私に向き直った。
穏やかな瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。
「十分に癒やされたよ、ありがとう」
「お義兄さん……よかった……」
続けてお義兄様は驚くべきことを告げた。
「賭けは、俺の負けだ」
彼は寂しげに微笑むと、私の頬にそっと触れる。
「結愛を愛してしまったからな」
――えっ!?
心臓が止まるかと思った。
ずっと聞きたかった言葉。
ずっと私が封印してきた言葉。
でも、続いた言葉は、その嬉しさをかき消すような、残酷な別れの宣告だった。
「俺はアメリカからいつ帰ってこられるかわからない。これからどうなるかもわからない」
「……そんなこと、なっ……」
お義兄様は絶対に成功します。
そう言おうとした私を遮るように、お義兄様の言葉が被せられました。
「だから、他の男と幸せになってくれ。契約は完了。お前を自由にすることが、今の俺が示せる、最大の感謝だ」
お義兄様の指が離れていく。
自分の気持ちを抑えて私を解放しようとしていることが、ありありと伝わった。
ここで私が好きですと言ってしまえば、留学を止めてしまうかもしれない。
あるいは、私を無理やり連れて行き、私が彼の人生の邪魔をしてしまうかもしれない。
そんなことになったら、私は自分自身を絶対に許せない。
彼の人生を狂わせるなら、姉や彼を刺した女達と同類になってしまう。
だから、私は嘘をつく。
彼の愛に応えるために、最高の強がりを見せる。
涙をこらえ、ニッコリと、小悪魔のように微笑んでみせる。
「ふふっ……残念ね、お義兄さん」
「え?」
「私の勝ちよ。お義兄さんに、身体は奪われた……でも、心までは奪われなかったわ」
精一杯の虚勢。
爪が掌に食い込むほど握りしめて、お義兄様を真っすぐに見つめて、強く言い放つ。
「だから心配しないでね。私は日本で素敵な人と幸せになるから!……だから、お義兄さんは、向こうで一人で頑張って! 私がいなくても、もう女遊びはしちゃだめだよ」
お義兄様が驚いたように目を見開いた。
すぐに私の瞳の奥にある揺らぎに気づいたのだろう、すべてを察したように目を細めた。
「……そうか。完敗だな」
彼は私の嘘を暴かなかった。
私の精一杯の愛情表現だと理解してくれたから。
決意を新たにしたような、気合のこもった顔つきに変わった。
私の気持ちを無にしないためにもアメリカで成功しなければならない。
そう思っているのだと思う。
「元気でな、結愛」
「さようなら……伊織さん」
私は初めて名前で呼んだ。
法律的にももう義兄ではないし、彼と距離をとるという意思表示だ。
伊織さんは私の全身に目をやると背を向け、ゲートの向こうへと歩き出した。
私は背中が滲んで見えなくなるまで、笑顔を貼り付けたまま見送った。
彼は一度も振り返らなかった。
ただ、角を曲がって消える時、こちらを見ずに右手を大きく振り上げた。
姿が見えなくなった瞬間、私の笑顔は崩れ落ち、頬を熱い涙が伝った。
――嘘よ……。本当はずっと、身体も心も、全部お義兄さんのもの
――私の心は、貴方のスーツケースに入って、一緒に海を渡ってしまうの
私たちの密やかで「ナチュラル」な関係が終わった。
抜け殻のような私と、奏多との。オープンで「アーティフィシャル」な関係が残った。