第4話:境界線の決壊

 季節は巡り、気だるい湿気を孕んだ夏が訪れていた。
 私とお義兄様の背徳の契約が始まってから半年。
 私たちの関係は、奇妙な均衡を保ったまま日常に溶け込んでいた。

 私は週の半分をお義兄様のマンションで過ごし、彼のために食事を作り、掃除をし、夜には彼の性欲の捌け口として使われていた。
 医学的な知識を用いた彼の愛撫は日に日に洗練され、私の身体の隅々まで快楽の地図を書き換えていった。
 それでも、最後の一線は越えられず、頑なに守られていた。
 私に残された最後の良心であり、奏多への愛情の証だったからだ。

 だが、その歪んだ均衡が崩れるのは一瞬だった。

 9月のある蒸し暑い夜。
 日中のサークルイベントで奏多が忘れたスマホを届けるために、私は彼の家に向かった。

 いつものように合鍵を使ってドアを開ける。
 すると玄関に、見知らぬヒールの高いサンダルが一足、脱ぎ捨てられていた。
 奥の部屋からは、甘ったるい女の声とベッドが軋む音が漏れ聞こえてくる。

「……え?」
 思考が停止した。聞き覚えのある奏多の声。そして、知らない女の声。

「あ、すごい……奏多先輩、おっきい……」
「っ、ごめん、もう限界……中に、出していい?」
「うん、だしてぇ」

 息を吐いて玄関を飛び出した。
 スマホをポストに放り込み、逃げるように走り出す。
 泣きながら駅に着いた頃には、空から大粒の雨が降り始めていた。

 後で問い詰めた時の奏多の言い訳は、あまりにも稚拙で残酷なほどの、男の本音だった。

 「ごめん、結愛。でも、俺だって男なんだよ。結愛がいつまで経ってもさせてくれないから……つい、魔が差して。ただの遊びだよ。身体だけの関係だ。心は結愛にあるんだから、許してくれよ」

 身体だけの関係。
 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが完全に砕け散った。

――愛なんて幻想だ、心より身体だよ         

 かつてお義兄様が吐き捨てた言葉が、呪いのように蘇った。
 ああ、そうか。お義兄様が正しかったんだ。
 私が守ろうとしていたプラトニックな愛なんて、性欲の前では無力な、ただの綺麗事だったのだ。

 土砂降りの雨の中、私は吸い寄せられるようにお義兄様のマンションへと向かった。
 ずぶ濡れのままインターホンを押す。
 ドアが開くと、部屋着姿のお義兄様が驚いたように目を見開いた。

「結愛? どうした、そんな格好で」
「……お義兄さん」

 私は玄関に崩れ落ちた。
 雨水と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼を見上げる。

「……お義兄さんの言った通りだった」
「……何があった?」
「奏多に……裏切られた。身体だけの関係だって。男だから我慢できなかったって」

 お義兄様の瞳が、すうっと冷たく細められた。
 何も言わずに濡れた私を抱き上げると、そのまま浴室へと運んでくれた。
 
 熱いシャワーが冷え切った身体に叩きつけられる。
 彼は無言のまま、タオルで私の髪を拭き、下を向いたままの私の背中をさすった。
 その手つきはいつもの淫らな愛撫とは違い、壊れ物を扱うような優しさに満ちていた。
 その優しさが、今の私にはあまりにも痛かった。

「お義兄さん……」
「なんだ」
「私、馬鹿だった。心なんて信じて、大事なものを守って……結局、馬鹿を見ただけ」

 私は彼の胸に縋り付いた。消毒液と、男の匂い。
 この半年間、毎日のように嗅いでいたこの匂いだけが、今の私にとっての唯一の救いだった。
 私が奏多を先に裏切っていたとは微塵も思わなかった。

 だって、お義兄様の命と未来が掛かっているのだ。
 奏多は性欲と軽い遊びの気持ちで簡単に一線を越えた。
 わたしもお義兄様も、一線を越えずにずっと我慢してきた。
 でも、もういい。

「お願い、お義兄さん……私を、癒やして」
「……いいのか、結愛?」
「うん、いいの……もういらない。操なんて、彼氏なんていらない。私を、お義兄様のものにしてください」

 お義兄様は、一瞬だけ躊躇いを見せたが、私の瞳にある絶望的な色を読み取ると、静かに頷いた。
「後悔しないな?」
「しない。今の私を埋められるのは、お義兄さんだけだもん」

 バスタオルが巻かれた私はお義兄様に抱きあげられて、寝室のベッドへ運ばれた。
 半年間、何度も愛撫され、何度も果てさせられた場所。
 けれども、決して最後までは求めてくれなかった場所。

 お義兄様が私の身体に覆いかぶさる。
 バスタオルが剥ぎ取られ、露わになった肌に彼の熱い素肌が重なる。
 今まで指や舌でしか触れられなかった場所に、硬く、太い雄の象徴が押し当てられた。
 愛撫は皆無。
 なのに、私の処女地はまるでそれを待ち望んでいたかのように、歓迎の甘い蜜を滴らせている。

「泣き顔を見たら、理性が飛ぶ」
 彼は私の目を手で覆うと、一気に腰を沈めた。
「あッ、ぁああああ……ッ!!」

 鋭い痛みが走った。
 身体が裂けるような衝撃。
 それ以上に強烈な充足感が全身を駆け巡った。
 異物が中に入ってくる感覚ではない。欠けていたパズルのピースがあるべき場所にカチリと嵌まったような、恐ろしいほどの充足感。

(ああ……これだ……)

 奏多との間では感じなかった、魂が震えるような感覚。
 痛みと熱さが、裏切られた心の穴を物理的に埋めていく。

「くっ、……きつい。なんて中だ、結愛……」

 お義兄様の余裕のない唸り声が耳元で響く。
 彼もまた、私を求めていたのだ。
 半年間、寸止めで焦らされ続けた彼の欲望が、ダムが決壊したように溢れ出す。

 パンッ!、パンッ!、パンッ!、パンッ!

 肉と肉がぶつかり合う音が、激しい雨音をかき消していく。
 私は彼にしがみつき、背中にぎゅっと爪を立てた。

 痛い。
 苦しい。
 気持ちいい。

 これが自然ということなのか。
 理屈も倫理も関係ない。
 ただ、この人と一つになるために私は生まれてきたのだ。
 そう錯覚するほどの、ナチュラルな相性の良さ。

 ドプッ、ドプ……ドクンッ!

 膣内で放たれた熱い奔流が、私の過去も、奏多への未練も、すべてを白く塗り潰していく。
 意識が飛ぶほどの絶頂の中で悟った。
 男と女には、まるで生まれたときから自然に決まっていたかのような、身体の相性の良さがあるということを。
 お義兄様と私の身体は、結びつくのが自然の摂理であることを……。

 その数日後。
 私は奏多からの謝罪を受け入れた。
 奏多は女から「先輩童貞だったし、早すぎ」とサークルで噂を流され、笑いものになっていた。

「本当にごめん、結愛。魔が差したんだ。もう二度としない。俺には結愛しかいないんだ」

 ファミレスの席で涙ながらに頭を下げる彼。
 以前の私なら泣いて責めたかもしれない。
 でも、今の私は、彼を許すことができた。

「わかった。もういいよ、奏多」
「えっ、許してくれるの……?」
「うん。でも、今回だけ。2度目はないから」

 私は微笑んだ。
 慈悲深い聖女の笑みではなく、同じ罪を背負った者に向ける寂しい笑みだった。
 私だって裏切ったのだから。
 私が処女を捧げたのは、彼氏である貴方ではなく、お義兄様なのだから。
 私たちはこれでおあいこ。

 その夜、私は奏多と初めて身体を重ねた。

 
 でも、一度入った亀裂は埋まらなかった。
 奏多とのデートは続いたが、どこかギクシャクした空気が流れる。
 彼が手を繋いできても、キスを求めてきても、私の心は動かない。
「リア充大学生をアピールするなら、彼氏彼女がいて当然」という形優先の奏多と私。
 そんな、薄っぺらい恋愛では物足りなくなっていたのだ。

 私の身体には、お義兄様に刻み込まれた強烈な快楽の記憶が焼き付いていた。

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