梅雨入りした東京は、連日重たい灰色の雲に覆われていました。湿気をたっぷり吸い込んだ空気は皮膚にまとわりつき、教室の窓ガラスは結露で曇っています。6月の湿度は、癖毛の女子生徒たちを憂鬱にさせ、体育終わりの男子生徒たちの汗の臭いを教室中に充満させていました。
「ジメジメする。最悪。髪巻いてもすぐ取れちゃうし」
「あーあ、早く夏休み来ないかな。彼氏と海行く約束したんだよねー」
後ろの席で、クラスの中心グループの女子が嬌声を上げています。
彼氏。海。水着。以前のわたしなら、その眩しい単語を聞くだけで、自分の惨めさと対比して胸が締め付けられていたでしょう。けれど今のわたしは、教科書に視線を落としたまま、心の中で冷ややかに微笑んでいました。
彼女たちが想像する「彼氏との夏」なんて、所詮はフードコートでダベったり、安っぽい民宿に泊まったりする程度のことでしょう。
でもわたしの夏は違います。私には、あの、ノアさんがいるのです。
この一ヶ月で、わたしの自己認識は完全に書き換えられていました。学校でのわたしは「仮の姿」。本当の私は、ノアさんに美しい蝶に羽化する原石として選ばれた「Ageha」。
その優越感が、入学当初に皆無だった余裕をわたしにもたらしていました。
――来月は、もっと深いところまで教えてあげる
ふいに、脳内でノアさんの声が再生されました。5月のあの日、電話越しに彼が囁いた言葉。それ以来、わたしは『ミューイングや『ドローイン』『顔のリンパマッサージ』その他、顔立ちや猫背を矯正するトレーニングに真剣に取り組んでいます。いつか、ノアさんに顔を見られても恥ずかしくないように。並んで隣を歩いても、彼に恥ずかしい思いをさせない女の子になれるように。
*
5月から始まったノアさんの美化指導は、6月に入ると『雪野まゆ・美少女化計画』とわたしの反対を押し切って恥ずかしくも銘打たれ、ますます本格化していきました。
今月の課題は二つ。「歩き方の改善」と「メイクスキルの向上」です。
まずは「歩き方の改善」。
猫背の矯正に加え、毎日課されているのが「O脚改善ストレッチ」です。内転筋を鍛える地味なトレーニングですが、これをやると太ももの内側がプルプルと震えます。
さらに、ペタペタ歩きを禁止され、モデルのような重心移動を叩き込まれました。かかとから着地し、足の親指で地面を蹴る。最初はロボットみたいにぎこちなかった歩き方も、最近ようやく板についてきた気がします。
そして二つ目の課題、「メイクスキルの向上」。
大前提として、素顔が大事だからと、表情筋トレーニングも欠かさぬよう指示されました。眼輪筋を鍛えて、コンプレックスだった眠そうな目を見開く練習です。鏡の前で変顔をするのは恥ずかしいけれど、効果はてきめんでした。
そのうえで、すぐに効果が出るからと、ノアさんが予約してくれた「有名なメイクアップアーティストの個室レッスン」に通うことになったのです。
そこで自分の顔の「正解」をプロに分析してもらいました。わたしが自己流でやっていた「囲み目ライン」や「濃すぎるチーク」は「素材殺し」だと全否定され、代わりに「引き算のメイク」を叩き込まれました。すっぴん風の透け感メイクです。
さらに、パーソナルカラーも徹底されました。わたしの肌の「白さ」を引き立てる色、青みピンクやローズ系以外は絶対に使わせてもらえません。
道具も一式、ノアさんが揃えてくれました。
Dior、Chanel、Tom Fordなどのデパコス一式。プチプラ特有のラメ感や粉飛びを許さず、濡れたような艶が出る高級品ばかりです。
メイクブラシも、熊野筆などの職人級ツール。「道具が良いと、肌へのタッチが優しくなり、表情も柔らかくなる」というノアさんの教え通り、肌に吸い付くような感触は感動的でした。
*
キンコンカンコン。チャイムが鳴り、退屈な古文の授業が終わります。わたしは席を立ち、モデル歩きを意識してトイレへと向かいます。個室に入ると鍵をかけます。スカートを捲り上げ、ショーツの中に手を入れます。自慰をするわけではありません。確認のためです。
――まだ、少しチクチクするわ
実はノアさんに指示されて、2週間ほど前から医療全身脱毛に通い出したのです。VIOを含む完全脱毛。毛穴をなくし、陶器のような肌にするのが目的だそうです。最初は金額の大きさと、恥ずかしい気持ちから遠慮したのです。でも。
――僕が勝手に申し込んでしまったのだから、通うかどうかは好きにしてかまわない
――でも、まゆちゃんに綺麗な蝶になってもらいたい気持ちはわかって欲しい
――申し訳ないと思うなら、綺麗になった姿を見せて、恩返ししてくれれば嬉しいな
こんな風に言われてしまったら、とても断れません。初回は痛いと聞いていたとおり、熱い針で刺されたようなチクチクとした痛みを感じました。そして10日間経過した頃から、毛がポロポロと抜け落ち始めました。これも聞いていた通りです。ですが、そのせいでかゆみを感じるので、時々クリームを塗って保湿しているのです。
見た感じ、なんとなく毛がまばらになり、生えてくるスピードが遅くなった気がします。また触れてみると毛が柔らかくなっています。
アンダーヘアを完全に無毛のツルツルな状態――ハイジニーナというそうです――にするのは幼女かAV女優にでもなるようで最初は抵抗がありました。でも、欧米の、特にセレブ女性の間では当たり前で、ほぼ100%そうだと知って、やるべきだと決意しました。
しかも、毛周期に合わせて2〜3ヶ月に1回、10回くらいはやらないとハイジニーナにならないから、なるべく早く開始したほうがいいということです。どうせなら来年の夏には間に合わせたいですが、少し難しいかもしれません。必要なら自分で剃ることにしましょう。
状態を確かめ、クリームを塗ったあと、ショーツを上げ、身だしなみを整えます。今のわたしの頭の中は、7月の「その日」のことで埋め尽くされています。
期末テストが終わった週末。それが、ノアさんとの初めての逢瀬の日と決まっていました。
*
その夜、10時を回ると、スマホが震えました。 最近は美容のために「シンデレラタイム」――入眠後3〜4時間の深い眠り――にもこだわるようになり、就寝前のスマホを避けて、ぬるめのお風呂でリラックスしてから就寝するようにしています。そのためノアさんとのDM会話も深夜ではなく夜の10時から30分程度となっています。
Noah:こんばんは、まゆちゃん。湿気が多い日は気分が塞ぎがちだけど、まゆちゃんはどうかな?
Ageha:大丈夫です。ノアさんのことを考えていたら、雨の音も素敵に聞こえます
Noah:ふふ、詩人だね。まゆちゃんのそういう感性が好きだよ。……さて、昨日の課題はクリアできたかな?
課題。その言葉に、わたしの下腹部がきゅっと疼きました。5月のローターによる「開発」を経て、6月に入ってからは、より具体的な「準備」が始まっていたのです。
それは、処女喪失の予行演習。『雪野まゆ・美少女化計画』の話をする中で、それはいつの間にか既定路線となっていました。強く否定しなかったのは、もちろん、わたしが内心では強く望んでいることだったからです。
わたしじゃなくても、女の子ならだれだってノアさんのような男性と初体験をしたいと思うはず。むしろわたしはノアさんに選ばれたことを嬉しく思うと同時に、なぜわたしなのだろう、と不思議にも感じていました。
Ageha:……はい。お風呂でやりました。指二本まで、入るようになりました
Noah:いい子だ。痛みはあったかい?
Ageha:少しだけ。でも、ボディクリームを使って滑りをよくしたら、奥まで入りました
Noah:そうか。まゆちゃんは飲み込みがいいね。素晴らしいよ。初めての時に、まゆちゃんを傷つけたくないんだ。無理やりこじ開けて血まみれにするのは、僕の美学じゃない。まゆちゃんには快感の中で、女になってほしいからね
一般的には、処女喪失は痛いものだと聞きます。でも、ノアさんは違う。わたしの体をこんなにも大切に考え、丁寧に準備をさせてくれている。彼はわたしの体を、わたし以上に熟知している「専属コーチ」なのです。画面越しの彼の優しさに胸が熱くなります。
Noah:今日は次のステップに進もうか。今度は、指を入れたまま、その筋肉をキュッと締める練習をしてごらん
Ageha:締める……ですか?
Noah:そう。膣圧トレーニングだ。そこはただ受け入れるだけの穴じゃない。まゆちゃんの意思で動かせる筋肉なんだよ。僕の指を、まゆちゃんの中の口で、逃さないように噛み付くイメージで
噛み付く。その野性的な表現に、背筋がゾクゾクしました。
Noah:これができるようになれば、まゆちゃんはもっと気持ちよくなれるし、僕をもっと喜ばせることができる。まゆちゃんは、僕を喜ばせたいだろう?
Ageha:はい。喜ばせたいです。わたしのためにこんなにたくさんのことをしてくださるノアさんのためなら、何でもします
Noah:なら、今すぐやってみよう。ベッドに横になって。指を入れて。僕のものを想像して、強く締め付けて……
*
6月の後半。学校では一学期の期末テストが近づき、図書室は勉強する生徒たちで溢れかえっていました。しかし、わたしにとっての「試験勉強」は、教科書の中にはありませんでした。
夜の自室。雨音が窓を叩く中、わたしはベッドの上でM字開脚になり、荒い息を吐いていました。
「んっ、くぅ……っ!」
自分の指を二本、秘部の奥深くまで挿入し、内側の壁を広げるように動かします。最初は異物感しかなかった行為が、今では甘い痺れを伴うようになっていました。
ノアさんの指導は的確でした。お風呂上がりの体が温まった状態で行うこと。焦らず、ゆっくりと広げること。そして何より、「これはノアさんを受け入れるための準備だ」と強くイメージすること。
――ここに入ってくるんだ。ノアさんの、熱い塊が
想像するだけで、膣内の粘膜がじわりと潤み、指にまとわりつきます。わたしは目を閉じ、見えない彼を想いながら、指を動かしました。指の腹で、中のひだを探ります。
5月に教わった「Gスポット」と呼ばれる場所。そこを刺激すると、尿意に似た切ない感覚が走り、腰が勝手に浮き上がるのです。
「あ、ぁ……ノア、さん……」
無意識に彼の名前を呼んでいました。
――会いたい
――早く会って、触れてほしい
――この指じゃ足りない。おもちゃじゃ満たされない
――わたしの空っぽの穴を、ノアさんで埋め尽くしてほしい
渇望。それが今のわたしを動かす原動力でした。学校での孤独も、親との希薄な関係も、すべてはこの渇望を育てるためのスパイスでしかありません。わたしは「繭」の中で、孵化する時を待っている。外の殻がどれほど灰色でも、中身は熟れて、甘い蜜を滴らせて、彼を待っているのです。
ピコン。
行為の余韻に浸っていると、通知音が鳴りました。まるで見透かされているかのようなタイミングの良さに、わたしはドキドキしながらスマホを手に取りました。
Noah: 頑張っているみたいだね。離れていても、まゆちゃんの熱が伝わってくるようだ
Ageha: ノアさん……私、もう待ちきれないです……
Noah:そうか……実は僕もなんだ……だから、予約したよ。7月20日の土曜日。終業式の翌日だ。都内のラグジュアリーホテルのスイートルームを取った
送られてきたのはアドレスの先のページは、ブルガリホテル 東京というホテルのデラックススイートルームでした。キングサイズのベッドのある角部屋でからは東京が2面から眼下に見下ろせます。それだけでなく、40階には25メートルの美しいプールまであります。
Ageha:……凄い……!
その豪華さに、わたしは息を呑みました。映画やドラマでしか聞いたことのない場所。一生行くことなんてないと思っていた場所に、わたしは招かれているのです。
Noah:その日が、僕たち二人の関係が本当にスタートする日だ。だから、それまでにまゆちゃんが身体も心も完璧に仕上げておいてくれると嬉しいな。僕ももちろん、盤石の心身でまゆちゃんを抱くから。今のまゆちゃんはまだ蛹(さなぎ)だけど……その日、まゆちゃんは美しいアゲハ蝶に孵化する第一歩を踏み出すんだ
Ageha:ありがとうございます! とっても嬉しいです! 楽しみにしています!
興奮状態のわたしは、ノアさんの話を聞かずに、凄い!と連発していました。
翌日からの学校生活は、期末テスト前なのに上の空でした。黒板の文字はただの記号の羅列に見え、教師の声は遠い雑音にしか聞こえません。
わたしは授業中も、椅子の座面にお尻を押し付け、密かに膣の筋肉を収縮させるトレーニングを繰り返しました。キュッ、キュッ、と力を込めるたびに、下腹部に微かな熱が宿ります。
――誰も知らない
真面目にノートを取っているふりをして、机の下では、淫らな訓練をしているわたし。クラスメイトが見たら軽蔑するでしょうか。それとも、地味なわたしの内側に隠された秘密に驚くでしょうか。そんな背徳的な空想が、退屈な日常をスリリングなゲームに変えていくのです。
雨はまだ降り続いています。けれど、わたしの心の中には、すでに夏の強烈な日差しが差し込んでいました。あと少し。あと少しで、わたしはノアさんのものになれる。
カレンダーの「7月20日」の日付に、わたしは口紅と同じ赤いペンで、ハートマークを書き込みました。わたしは知る由もありませんでしたが、ノアさんの「Pet(お気に入りの子)」として認められるかどうかの、最終試験の日でもありました。