5月も下旬になり、梅雨を前にうだるような蒸し暑い日が訪れ始めました。 クラスメイト達の顔に疲れが見られる中で、わたしは一人、生き生きとしています。
背筋は、今までになくピンと伸び、唇にはノアさんからのプレゼントと言える、ローズレッドの口紅を薄く引いています。校則違反にならないよう、ティッシュで二度押さえてマットな質感にしてあるけれど、その赤色は確かにそこに存在し、わたしに秘密の魔法をかけています。
――私には、ノアさんがいる
退屈な現代文の授業中、わたしは教科書を立てて、その陰でこっそりと自分の手首を嗅ぎました。 ほんのりと、甘いバニラの香りがします。 口紅と同じブランドのボディクリーム。これも、彼が追加で送ってくれたギフトコードで買ったものです。
周囲の女子たちがプチプラの化粧水の話で盛り上がる中、自分だけがデパートコスメの高級な香りを纏っている。その優越感が、クラス内カースト下層のわたしを支える支柱でした。
また最近、わたしは鏡を見る回数が増えていました。以前は自分の顔を直視するのも嫌だったのに、今は洗面台の鏡で、あらゆる角度から自分を観察してしまいます。
――ノアさんが褒めてくれた唇
――ノアさんが磨き甲斐があると言ってくれた白い肌
彼というフィルターを通すことで、嫌いだった自分のパーツが、少しずつ価値のあるものに思えてきていました。
夜の10時。この日も待ち兼ねていた通知音が鳴りました。
Noah:こんばんは、まゆちゃん。肌の調子はどうだい?
Ageha:すごくいいです。ノアさんに教えてもらったクリーム、魔法みたい
Noah:よかった……でもね、まゆちゃん。外側から塗るだけのケアには限界があるんだ。本当に美しい女性というのは、内側から発光するような血色感を持っているんだよ
Ageha:内側から?……サプリメントとかですか?
Noah:違うよ。もっと本能的なものだね。女性ホルモンを活性化させ、頬を薔薇色に染め、瞳を潤ませる最高の美容液。なんだと思う?
Ageha:んー、漢方薬みたいな塗り薬とか? 中国4千年の秘薬とか?
Noah:ふふふ、まゆちゃんは時々面白いことを言うから侮れないなぁ……それは、性的な快楽だよ
ドキリ、としました。画面の文字を見つめるわたしの顔が、反射的に熱くなります。5月中旬までの彼は、とても紳士的でした。わたしの愚痴を受け止めた後のプラトニックな会話と、美容のアドバイス。異性を感じさせない、まるで『優しいお姉さん』のようでした。
けれども下旬になってから、彼のメッセージに少しずつ「粘度」のある言葉が増えていたのです。
Noah:まゆちゃんは自分の身体を、自分で「愛して」あげたことはあるかい?
Ageha:えと、それは……あっ!
オナニーのことだ、と気づくのに数秒かかりました。経験がないわけではありません。でもそれはあくまでどうしても我慢できないときの、やむを得ない生理的な処理であり、恥ずかしい行為だという認識しかありませんでした。ましてや、それを憧れの男性に報告するなんて。
Ageha:……ないです。そういうの、よくわからなくて
なので思わず嘘をついていました。そんな恥ずかしいことをしていると思われたくなかった。清純なふりをしたかったのです。でも、ノアさんはそれさえもお見通しのようでした。
Noah:それは勿体ないよ、まゆちゃん。自分の喜びのツボを知らない女の子は、綺麗になれないよ、女の子の美しさは女性ホルモンの分泌と密接な関係があるのだから。生理の時に肌が荒れたりするでしょう? 女性の美はその延長線上にあるんだ
Ageha:……それは……そうかもしれません……けど
Noah:教えてあげるよ。まゆちゃんがもっと綺麗になるための、綺麗な女性が隠していて決して教えてくれない、綺麗になるための秘訣
わたしの言葉を遮って送られてきたのは、またしてもURL。大手通販サイトの商品ページ。表示されていたのは、パステルピンク色の、卵のような形をしたシリコン製の小さな機械……女性用のアダルトグッズ。そこには『ローター』と書かれています。一万円近くする、デザイン性の高い高級品でした。
Noah:これを買いなさい。まゆちゃんの部屋に届くように手配して。使い方は、僕が通話で教えてあげるから
通話。その二文字の破壊力は凄まじいものでした。今まで文字だけのやり取りだったノアさんと、初めて声で繋がる。想像しただけで、わたしの股間がきゅっと縮こまりました。
――怖い。でも、ノアさんの声を聞いてみたい
Ageha:……わかりました。買います
それに、拒否権など最初からありませんでした。初心ではあっても、エッチなことに興味がないわけではありません。それに、ノアさんが綺麗になると言うのなら間違いありません。わたしはほんの半月ほどの彼のレッスンで、既に彼の言葉が「絶対的な真理」として刻まれ始めていました。
商品は二日後に届きました。両親が帰宅する前の時間帯の「置き配」指定にして、誰にもわからないようこっそり受け取りました。段ボールは少し離れたごみ収集場所に、夜の闇に紛れてこっそり捨てました。
*
金曜日の深夜。両親は別々の部屋ですでに寝静まっています。わたしは部屋の鍵をかけ、雨戸を閉めてカーテンを隙間なく引きました。
ベッドの上で震える手で箱を開けます。出てきたのは、想像よりもずっと小さく、すべすべとした手触りのピンク色の物体でした。これなら、机の上に置いてあってもインテリアにしか見えないかもしれません。説明書通りに充電を済ませると、小さなLEDランプが蛍のように点滅しました。
深夜1時。スマホが震えます。着信画面にはNoahの文字。大きく深呼吸をして、通話ボタンをスワイプしました。
――こんばんは、まゆちゃん
耳に嵌めたワイヤレスイヤホンから流れてきたのは、想像していたよりもずっと低く、脳髄が痺れるほど甘い声でした。チェロの音色のような、深い響き。一度聞いただけで、鼓膜の奥に住み着いてしまいそうな、忘れられない声。
――こんばんは、ノア、さん……凄く素敵な声ですね
――ありがとう、まゆちゃんの声も可愛いよ……想像していた通りの、愛らしい声だ
耳元で囁かれているような錯覚に陥ります。わたしはベッドの上で膝を抱え、熱くなった耳を片手で押さえました。
――準備はできているね? 部屋の明かりを消して、間接照明だけにしてごらん
――はい
言われるがままに電気を消して、枕元のシェードランプを灯します。薄暗い部屋の中、スマホの画面の明かりがわたしの顔を照らします。
――じゃあ、服を脱ごうか……下着も全部だよ……生まれたままの姿になって
――でも……
――恥ずかしがらないで……僕はまゆちゃんを見ていない……まゆちゃんの声と気配だけを感じているんだ……さあ、美しくなる魔法をかけてあげるよ……
――……わかりました
美しくなる魔法。その言葉は、わたしにとって最強の呪文でした。ノロノロとパジャマを脱ぎ、彼に選んでもらって購入したアイスブルーのランジェリーも外し、全裸になりました。5月下旬の密室内は裸でも汗ばむくらいでした……そう感じたのは、わたしの身体がカッカと火照っていたからかもしれません。
――まずは、自分の身体をよく見てごらん……鏡はあるかい?
――……はい
勉強机の上に置いてあるスタンドミラーを引き寄せます。
――その鏡の前で、脚をM字に開いて……自分の秘部を、鏡に映してみるんだ
――えっ……いや、です……無理です……
わたしは思わずスマホに向かって首を振りました。自分の性器なんて、一番見たくない場所だったからです。
色が黒ずんでいる気がするし、形もビラビラしていて醜い。ネットで見るAV女優のような綺麗なピンク色じゃない。それがコンプレックスで、お風呂場でも極力見ないようにしてきたのです。
――どうして? まゆちゃんは自分のそこが、汚いと思っているのかな?
――うん……だって……色が変だし……変な形だし
――ふふ、誤解だね……まゆちゃんはまだ、自分の価値を知らないだけ……
――いいかい、まゆちゃん。そこはまゆちゃんの中で一番正直で、一番愛されるべき場所なんだよ……花びらと同じ、形や色が一つ一つ違うのは当たり前の場所さ……でも……そうだね……本当に変だったら大変だ……だから僕が見て確かめてあげるよ……もし変だったら、気づかずに時間が経って……取り返しのつかないことになってしまうかもしれないよ……癌が進行するみたいに
その言葉に、拒絶の壁がガラガラと崩れ去りました。恥ずかしさより万一の病気の恐怖が上回ったのです。確かにこんな機会はありません。わたしは泣きそうな顔で、鏡の前でゆっくりと膝を開きました。
冷たい鏡の中に、自分の股間が映っています。恥ずかしさで死にそうでした。
――見えたようだね……じゃあ、写真を一枚撮って、僕に送って……顔は写さなくていい……そこだけをアップにするんだ
深夜の怪しい雰囲気と、彼の声に酔い、恥ずかしさで頭が真っ白になっているわたしは、彼の穏やかな命令に逆らえなくなっていました。
カシャッ。
シャッター音が、静まり返った部屋に響きました。写真を自分の目で確かめます。恥ずかしい。でも送らなきゃ! 送信ボタンを押す指が震えました。
数秒間の沈黙。その数秒が、永遠のように長く感じられ、羞恥心が募ります。彼に幻滅されたらどうしよう。汚いと言われたら、もう生きていけません。
――ああ、素晴らしい!
スマホから聞こえてきたのは、心からの感嘆の声でした。
――なんて美しい色だ……蕾のように閉じていて、控えめで……まさに原石だね……こんなに綺麗な場所を隠していたなんて、まゆちゃんは悪い子だ……
綺麗? これが?
わたしは呆然と鏡の中の自分を見つめました。彼が美しいと言うのなら、これは美しいものなのでしょうか。醜いと思っていた自分の体の一部が、彼の言葉一つで、急に価値ある美術品のように思えてきたのです。
そんなわたしの思いを無視して、ノアさんの指示が続きます。
――さあ、レッスンの続きだよ……その機械のスイッチを入れて
わたしはピンク色のローターを手に取り、スイッチを入れました。ブブブブ、と小刻みな振動が掌に伝わります。低く唸るようなモーター音が、静かな部屋に響きました。
――鏡に映っている、美しい花園の蕾にあててごらん……優しくだよ……
わたしは震える手で、振動するピンクの卵を、自分の蕾に添えました。ひやりとしたシリコンの感触。
直後に、強烈な痺れが下半身を駆け抜けました。
――あっ、んっ!
敏感なクリトリスに振動が直撃し、わたしは思わず短い悲鳴を上げて背中を反らしました。自分の指とはまるで違います。一定のリズムで、容赦なく訪れる快感。
――いい声だ……気持ちいいかい?
――わ、わかんない、です……痺れる……なんか、おかしい……
――おかしくないよ……それが快感だ……もっと強く押し当てて……そこが、まゆちゃんの「快楽のスイッチ」なんだから
ノアさんの声は、冷徹な指示のようでありながら、どこか熱を帯びていました。わたしは彼の声に操られるように、ローターを強く押し当てます。
脳がとろけるような感覚。足の指先が縮こまり、太ももの内側が小刻みに痙攣します。
――あ、あ……ノアさん、だめ……
――ダメじゃない、もっと感じるんだ――まゆちゃんの顔、今、すごく綺麗になっているはずだよ……頬が紅潮して、目が潤んで……想像するだけで、最高にエロティックだ……
エロティック。その言葉が、最後の理性を焼き切りました。
わたしは今、淫らなことをしている。会ったこともない男性の声を聞きながら、親のいる家で、裸になってオナニーをしている。その背徳感が、ローターの振動以上の興奮となってわたしを襲いました。
――ん、ん、んんっ……
――イキそうなんだね……イっていいよ……まゆちゃんがイく声を、僕に聞かせて……
イく? イくって、なに?わかりません。でも、何かが込み上げてくる感じです。お腹の底から、熱い塊がせり上がってくるのです。
――……あっ、あ、ああっ!
視界が真っ白に弾けました。わたしはシーツを強く握りしめ、喉の奥から獣のような声を漏らしました。腰が勝手に跳ね、太ももの筋肉が強張ります。頭の中が空っぽになり、ただ快感の波だけに翻弄される数秒間。
――はぁ、はぁ、っ……
振動を止めた後も、身体の震えが止まりませんでした。汗ばんだ肌が、夜気に触れてひやりとします。
わたしは力なくベッドに横たわり、荒い息を繰り返しました。今のが絶頂だったのでしょうか? これまで自分を慰めたときとは、快感の度合いが全く違っていました。
――よくできました、良い子だ、まゆちゃん……
耳元で、ノアさんが優しく囁きました。その声は、頭を撫でてくれるような慈愛に満ちていました。
――鏡を見てごらん。今のまゆちゃんは、学校にいる時とは別の顔をしていると思うよ……
わたしはぼんやりとした頭で、鏡を見ました。そこには、髪を振り乱し、頬を火照らせ、瞳をとろんと潤ませた、だらしない顔の女が映っていました。
でも、確かにそれは、土気色で死んだような顔をしていた頃の自分よりも、ずっと生々しく、鮮やかな色彩を放っていたのです。
Noah:それが、まゆちゃんの本当の美しさだ……おやすみ、ゆっくり余韻に浸るといい……
通話が切れた後もその場から動けませんでした。体の中に、新しい回路が開通してしまった感覚。もう、戻れない。普通の女子高生だった雪野まゆは今夜死んで、ノアさんのために淫らに啼く、雌のペットに生まれ変わってしまったように感じました。
画面には、彼からの最後のメッセージが残っています。
Noah:来月は、もっと深いところまで教えてあげる。楽しみにしていてね。
その言葉と先ほどのプレイを脳内でリフレインしながら、わたしは熱を持ったスマートフォンを胸に抱きしめながら、自然と眠りに落ちるまで、いつまでも余韻に浸っていました。