第4話:影の装い

 旅行の日が来るのはあっという間でした。
 2歳にもならない娘・陽葵(ひまり)を連れての海外旅行には不安もありました。
  でも、美令さんが空港からホテルまで完璧にサポートしてくれたおかげで、私たちはマカオの高級ホテルに無事チェックインすることができました。

 2泊3日の、夢のような旅程です。
  初日と翌日の日中は、美令さんのエスコートに従って観光名所を巡ったり、本場の広東料理に舌鼓を打ったり、ホテルのプールで陽葵と遊んだりして、3人で穏やかな時間を楽しみました。

 そして、2日目の夕方。
 遊び疲れて早々に寝入った陽葵の、マシュマロのようなほっぺたをつんつんしても起きないことを確かめます。 いよいよ、私が「母親」を脱ぎ捨てて、一人で楽しむ時間が訪れたのです。

 可愛い愛娘の寝顔を見ると、もちろん幸せを感じます。 
 でも、それだけでは埋められない、「女」としての悲しい渇きが私にはありました。
 だから私は、今回の旅行が楽しみで仕方なかったのです。これから過ごす「大人の社交場」が。

 私はバスルームでシャワーを浴びると、深呼吸をして鏡の前に立ちました。
  身につけるのは、普段の私なら決して選ばない、鮮血のように赤いサテンのミニドレスです。
 デコルテと背中が大きく露出し、動くたびに胸の谷間が見えそうなほど際どいデザインでした。

 いつもより念入りに化粧をし、目元をアイラインで強調します。
  首元には、美令さんが「これがお洒落なのよ」と選んでくれた、黒いチョーカー風のネックレスを巻きました。 最後に、家には一足もなかった10センチのピンヒールに足を通します。
  鏡の中にいたのは、良妻賢母の「如月深樹」ではなく、夜の街に生きる妖艶な「美令」そのものでした。

 ハンドバッグに忘れ物がないかチェックしていると、ソファでくつろいでいた美令さんが声をかけてきました。

「ねえ深樹さん、結婚指輪していくの?」
「あっ……!」

 指摘されて左手を見ると、プラチナのリングが光っています。 これでは「アバンチュール」になりません。 私は慌てて薬指から引き抜き、化粧台のアクセサリーボックスに置きました。

「それから、パスポートは?」
「あ、それも忘れてた。私のを持っていけばいい?」
「ううん、ダメよ」

 美令さんは悪戯っぽく笑って、自分のパスポートを差し出しました。

「万が一にも『錦織美樹』と身バレしないように、『霧島美令』の名前で申し込んだじゃない。ドキドキしすぎて忘れちゃった? 深樹さんのパスポートは私が預かっておくわ。代わりにこれを持って行って」 「あっ、そうだったわね!」

 私は慌てて自分のパスポートを渡し、『霧島美令のパスポート』をバッグにしまいました。
  これで今夜の私は、身分証の上でも彼女になったわけです。

 昨夜、ホテルの美容室で私の長さに合わせて髪を切り、黒く染めて私そっくりになった美令さんと、眠っている娘に手を振ります。
 丈の短いボレロを羽織り、ハンドバッグを持って扉を開けました。

「とびきりのサプライズイベントを仕込んであるから。楽しんできてね、深樹さん」

 ドアが閉じる直前、美令さんの声がしました。 思い返すと、その声にはいつもと違う、冷たく硬質な響きが込められていたような気がします。

 けれど久しぶりの「デート」に胸を躍らせていた私は、その違和感を気に留めることなくエレベーターへ向かってしまったのです。

 待ち合わせ時刻にはまだ早かったのですが、煌びやかなロビーにはすでにウェイロンが佇んでいました。
 彼は女性をエスコートし、楽しませ、ニーズがあればベッドの中でも奉仕する、現地の富裕層向けデートクラブの男性キャストです。

 ウェイロンとは昨日の午後、陽葵がお昼寝している隙にホテルのラウンジで顔合わせを済ませていました。
 概ね写真どおりのルックスで、スタイルも私好みの細マッチョ。
 モデルのように脚が長く、優しげな瞳をした青年です。

 日本語も日常会話レベルなら問題なく話せたため、顔合わせは円滑に進みました。
 彼の物腰の柔らかさと巧みな話術に引き込まれ、1時間ほどお茶をした後には、互いに「ミレイ」「ロン」と呼び合うまで距離が縮まっていたのです。

 今着ているこの過激なドレスも、彼が所属している『サロン』が提携する衣装店で、彼自身が選んでくれたものです。
 自分では「派手すぎる」「肌が出すぎている」と尻込みしたのですが、試着した私を見た彼が、うっとりした顔で「とてもセクシーだ」「女神のようだ」と賛美し、何度もこれを着て欲しいと懇願するので、つい良い気分になって乗せられてしまったのでした。
  夫からは一度も向けられたことのない熱っぽい視線。それが、私の理性を溶かしていました。

「お待たせ、ロン」
「……!」

 私の声に振り返った彼は、大げさなほど目を見開き、眩しそうに微笑みました。

「大丈夫だよ、ミレイ。僕もいま来たばかりだかラ」

 彼は私の手を取ると、手の甲に恭しく口づけました。

「そのドレス……やっぱりよく似合ってるネ。とってもセクシーだよ、ミレイ」

 セクシー。それは性的な対象として見られているという意味です。
 普段なら眉をひそめる言葉なのに、今の私には最高の褒め言葉として響きました。 これから彼とセックスするつもりなのですから、当然かもしれません。

「ありがとう。嬉しいわ」

 私は少女のようにはにかみました。

「お礼を言うべきなのは僕のほうですヨ。僕のために、こんなに美しく着飾ってきてくれたのですから。期待にお応えするために、今日はハラキラないといけません……いえ、『張り切る』ですね。日本語ムズカシイ」

 彼はそんな冗談を言って私を笑わせると、自然な動作で私の腰に腕を回してきました。
  その体温の熱さに、私はとくん、と胸を高鳴らせます。

「大丈夫よ。これからみっちりレッスンしてあげるわ……ベッドの上でもね」

 普段は決して言わない、はしたないセリフ。
  私を美令さんだと思っている彼には、奔放な女を演じて堂々と口にできました。

「その代わり、しっかり楽しませてね? 期待しているわ」
「仰せのままに、マイ・レディ」

 腰を抱かれ、すでに夢心地で歩き出しながら、甘い会話を交わします。

 ホテルの回転扉を出る時、ふと振り返ると、ロビーの奥の人混みの中に、夫・大輝に似た男の後ろ姿を見かけた気がしました。 でも日本で愛人とよろしくやっているはずの夫が、ここにいるはずがありません。

(他人の空似だわ。私と美令さんみたいに)

 私はそう思い込み、確認することもなくウェイロンと二人でタクシーに乗り込みました。
 それが、清純な私の最後のデートになるとも知らずに、夜の街へと向かっていったのです。

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