そして、運命の日はやってきました。
美令さんが手作りケーキを作るため、キッチンで卵をかき混ぜている時のことでした。
「そういえば深樹さん、もうすぐ27歳の誕生日だよね?」
「ええ。よく覚えていたわね」
「もちろんよ直。当日はどうするの? 旦那さんとディナー?」
「まさか。夫は仕事よ。ここ数年、誕生日はずっと一人で過ごしているわ」
私が自嘲気味に笑うと、美令さんは泡立て器を止めて、真剣な瞳で私を見つめました。
「やっぱり。ねえ深樹さん、提案があるの」
「提案?」
「誕生日のお祝いに、海外旅行に行かない? 私と深樹さんの二人で! 誰にも内緒で、パーッと遊ぶのよ」
「えっ……!?」
思いがけない提案に、私は手にしたボウルを取り落としそうになりました。
慌ててテーブルに置き、美令さんの顔をまじまじと見つめます。
「びっくりさせないでよ、もう! でもどうして急にそんなこと言い出すの?」
「あはは、ごめんごめん。実はね、お店のお客様から『一緒に行こう』ってマカオの旅行ツアーチケットをいただいたのよ。常連さんで懇意にしているので一緒に行くつもりだったんだけど、そのお客様が急に体調を崩して行けなくなっちゃって」
美令さんは悪戯っぽく舌を出して、ポケットからチケットのようなものを取り出しました。
「『せっかくだから友達と行ってきなさい』って、二人分の航空券とホテルクーポンをくれたの。期限も近いし、もったいないでしょ?」
「へー……そういう太っ腹な人もいるのね、いいわね。でも、それなら他のお友達と行ってくればいいじゃない。私は無理よ。夫が許してくれないわ」
私が首を振って断ると、美令さんは目に見えて悲しそうな顔をしました。
「でも、そのお客様から『女友達限定』って言われているの。それに私、女の子の友達は深樹さんしかいないから……」
「……」
そんな風に言われては、無下にはできません。私は言葉に詰まり、絶句してしまいました。
「マカオって日本から近いし、カジノのイメージが強いけれど、実はおしゃれで楽しめるところも多いのよ」
「詳しいの?」
「一度行ったことがあるから。ねえ深樹さん、せっかくの27歳の誕生日なんだし、たまには羽を伸ばしてもいいんじゃない?」
羽を伸ばす。その言葉は魅力的でしたが、私には守るべき枷(かせ)がありました。
「うーん……羽を伸ばすといっても、陽葵(ひまり)の面倒をみなければいけないし、逆に疲れるだけよ。あの子、最近ますます目が離せないし」
「そこは私がいるから大丈夫!」
美令さんは身を乗り出して、私の手を取りました。
「まる一日は無理だけれど、4〜5時間なら私一人で面倒見れるから。その間、深樹さんは『一人の女』として自由になれるよ」
「えっ……」
「ねえ深樹さん。パスポート、持ってます? 誰にも内緒で行きましょう」
そう言われて、私の心は大きく揺らぎました。異国の地で、母という役割から解放される時間。
「それは……ありがたいわね。ちょっと行きたくなっちゃうわ。でも、そうなると私一人で行動しなければならないのね……怖いわ」
「そうよね! だから、こういうのはどうかなって?」
美令さんが声を潜めて提案したのは、夜の世界に長年身を置いてきた彼女ならではの、驚くべきプランでした。
マカオの高級ホテルでの、身分を明かさない一夜限りのアバンチュール。相手は、彼女のコネクションで手配する極上の男性――。
私は赤面しました。けれど、その背徳的な提案に強烈な魅力を感じていることを隠しきれませんでした。
そんな私を後押しするように、彼女は明るく言いました。
「旦那さんが帰宅したら、行ってもいいか聞いてみなよ! それで許可が下りたら行こう! ね、それでいいじゃん?」
夫・大輝が許してくれるはずがない。
そう思いながらも、私の声は期待で弾んでいました。
「ええ、そうね……そうしましょう!」
なるべく早く許可をとってね、こっちも色々準備があるから、と美令さんは楽しげに帰っていきました。
その夜、私はさっそく帰宅した夫に話してみました。
すると驚くことに、二つ返事で許可が下りたのです。
「ああ、いいよ。たまには息抜きしてくれば? 陽葵も連れて行くんだろ? 気をつけてな」
夫はスマホから目を離さずにそう言いました。
私の誕生日を祝う気など更々ないのでしょう。それどころか、私と娘がいなければ、数日間この広い家で愛人と憂いなく過ごせる。そんな本音が透けて見えた気がしました。
今の私には好都合でした。
こうして、私の運命を変えるマカオ旅行が決まったのです。