四月。遠くに見える山々に残っていた雪が消えて、古民家の庭にも桜が舞う季節になった。緊縛指導は、基礎固めの終わった紫苑に、俺の緊縛の神髄を伝授する段階まで到達していた。
だが、俺の体調は春の訪れとは逆に、秋から冬へと緩慢に移り変わっている。咳き込む回数が増え、酸素濃縮装置の流量は「2」から「4」へと上げざるを得なくなった。死神の影が、もう玄関先まで届いている。残された時間は少ないことを自覚した。
*
四月中旬。まずは第一段階『静(せい)の縄』。
「いいか紫苑。これは拘束ではない。保護だ」
俺は紫苑に、床に寝かせた紗英を簀巻きのように縛る海老縛りの変形を指導する。肌に纏う縄に意識を集中させるために、紗英には目隠しを施している。
「母の胎内を思い出させろ。重い布団にくるまれたような圧力で、外界の情報を遮断するんだ」
紫苑の蒼い縄が、紗英の手足を小さく折り畳み、何重にも包み込んでいく。 視界を奪われ、身動きを封じられた紗英が安らかな寝息を立て始めた。思考停止の快楽。何も考えなくていいという責任の放棄とストレス(刺激)を遮断することによる安らぎ。母を早くに亡くし、常に気を張って生きてきた紗英の心の穴を埋めるベースとなるのは、この『静』だ。裸身を直接包み込む、恋人の匂いと優しさを想起させる縄がその効果を著しく高めているようだ。
五月上旬。第二段階『華(か)の縄』。
「次は『恥じらい』を引き出せ。紗英の秘めたる女の魔性を開花させるんだ」
股間を大きく開かせる開脚縛り。縄を下着のように纏わせる股縄。乳房を搾り上げて淫らに突き出させる胸縄。そうした羞恥系の様々な緊縛手法を教え込む。今回は紗英に目隠しはさせていない。
鏡の前に晒された紗英が、自身の姿を見て頬を染める。 見られる羞恥を悦びの快楽としてポジティブに受け止めさせる条件づけ。美しさと恥ずかしさは表裏一体だ。
「遠慮は捨てろ。堂々と、全てを晒させろ。奥ゆかしい紗英の中に眠っている、女としての業(ごう)を縄で絞り出し彩るのだ」
紗英専用の紫苑の蒼い縄が肌を舞って自身の女を際立たせるたびに、紗英は恥じらいながらも潤んだ瞳で息子を見つめ返していた。
五月下旬。最終段階、『業(ごう)の縄』。
「紗英に苦痛と快楽の境界線を踏み越えさせる。最終関門だ」
関節の可動域ギリギリまで攻め、脳内麻薬(エンドルフィン)が出るレベルの負荷をかける。理性が飛び、本能的な反応しかできなくなるトランス状態。「死」に近づくことで逆説的に「生」を実感させる、危険な縄。
しかし、この大事なときに発作が起きた。洗面所で喀血(かっけつ)して倒れ込んでしまった。まずいことに、そんな俺の弱々しい姿を息子に見られてしまった。
「親父……!」
俺の背中をさする息子の手は震えていた。その目が「焦り」で鈍く光っていることに気づいてやれなかった。父の死期が迫っている。父が旅立つ前にその全ての技術を習得しなければならない。息子のそんな焦燥感を俺の発作が強め、手元を狂わせる引き金となってしまった。
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六月。紫苑が俺に懇願する。
「『背面合掌吊り』をやらせてほしい」
背中で手を合わせ、そこを支点に全身を吊り上げる高難度の技だ。
「まだ早い。あれは吊り緊縛の中でも特に危険な手法のひとつだ。肩関節と神経への負荷が高すぎる」
「でも、親父の体調が……今のうちに学んでおかないと!」
紫苑の必死さと紗英の「紫苑を信じています」という言葉で、俺は折れざるを得なかった。
「……いいだろう。だが少しでも危険と判断したら即座に中断する。リスクについての意識を高めておけ。優先順位を間違えるなよ」
「わかってる、大丈夫だ」
俺が言い終わる前に、早口で言葉を被せてくる息子に不安を感じた。だがやらせざるを得ない。
息子の縛りは迅速だった。早いことは良いことだ。だが、俺が目の当たりにしているのは熟練の顕れではなく、焦燥感によるものだった。 息子は『華』や『業』の派手さばかりを意識して、『静』を置き去りにしていた。受け手の安心・安全をないがしろにして己のパフォーマンスを追及する、決してあってはならない傲慢で驕った縛り手の縄と化していた。
(不味いな)
長年の経験が警鐘を鳴らす。俺は、おそらく起こるであろう事態を幾つか想定し、対応策をシュミレートして危険に備える。
紗英の体が宙に浮いた。形は完璧だった。紗英も苦痛に耐え、恍惚の表情を浮かべているように見える。 だが俺の目は見逃さなかった。紗英の右手の指先の色が変化しつつあるのを。チアノーゼの兆候だ。腋の下を通る縄が動脈と神経を潰している。俺は叫んだ。
「降ろせ!」
「え? まだいけるよ。紗英さんの表情も大丈夫そうだし」
「何を言っているんだ! 指を見ろ!」
「えっ?」
息子の反応は鈍かった。ここまでできたのにもったいないというサンクスコスト心理が働いたのだろう。その遅れが致命的だった。紗英の指の色が明らかに変わっていた。
「馬鹿やろう!」
バカ息子を一喝した俺は、酸素チューブを引きちぎる勢いで立ち上がり、紗英の背後に急いで回り込み、全体重がかかっているメインの吊り縄に刃を入れる。
バチンッ!!
乾いた切断音が響き、紗英の体が落下する。俺は倒れ込むようにしてその体を受け止めた。懐には緊急用として「医療用安全鋏(はさみ)」を忍ばせていた。走ったせいで、焼けるように肺が痛むが、まだ終わりではない。
「親父!?」
立ちすくむ息子を無視して残りの縄も次々と切り裂いた。息子が紗英のために生み出し、紗英の肌に馴染んできた蒼い縄が、無惨な切れ端となって畳に散らばった。
縄が解かれると、紗英の右腕がダラリと垂れ下がった。幽霊のように力がない。
「……手の感覚がないわ……動かない」
紗英が青ざめて呟く。『下垂手(かすいしゅ)』だと思われる。
「嘘だろ……」
紫苑が膝から崩れ落ちた。
「『橈骨(とうこつ)神経麻痺』だ。あと五分遅れていたら、紗英の腕は一生動かなくなっていたかもしれんぞ!」
*
医師の診断では、「一過性の神経麻痺ですね。二週間程度で完治するでしょう」とのことだった。最悪の事態は免れた。 切り刻まれた蒼い縄の残骸の前で、息子は激しい悔恨に苛まれた。
「俺には、才能がない……」
絞り出すような声だった。紗英に生を与えるための縄で、彼女を壊そうとした罪は重い。
「才能だと?何を言っている?そんなものは関係ない。受け手の紗英より縛り手のお前を優先した、お前の『エゴ』の問題だ。原因を見誤るでない!」
散らばった縄の切れ端を拾い上げて愚かな息子に押し付ける。
「人を縛るとは、命を預かることだ。今後、紗英を縛るときには常にこれを懐に忍ばせていろ」
青ざめた顔の息子が唇を噛み、黙って頷いた。
そんな息子の背中に、三角巾で腕を吊った紗英がそっと動くほうの手を回す。
「紫苑だけのせいじゃないよ」 彼女は紫苑の耳元で囁いた。
「私も、ちゃんと言うべきだったわ。痛い、って。紫苑さんが必死だったの、分かってたから、つい私も我慢しなきゃ、って思っちゃって。ですよね?鬼灯さん」
なんと答えるべきか、言葉選びに迷っている俺を無視して紫苑に語りかける。
「だから、まず話し合おう。リスク管理の方法についてしっかり。それが終わったら、また縛って。今度は貴方のエゴのない、純粋な愛情だけの縄で」
「……ああ、そうしよう」
息子の表情が生気を取り戻した。虚ろだった瞳も覚悟の輝きが戻った。
(強くなったな、紗英)
その光景を見ながら、俺は思った。
紗英の腕が完全に回復するまでの三週の間に、俺たち三人は緊縛のリスクと回避方法について徹底的に話しあった。俺は二人に人体の構造について学んだ上で『セーフワード』を決めておくよう指導した。
紫苑に対しては、俺が自ら緊縛して危険な箇所と感覚を身体に叩き込んだ。縛られているときの受け手は陶酔状態にあり、受け手が気づかない場合も多々ある。
紗英に対しては、受け手が遠慮し黙っていた結果として一生の傷を負ってしまった事例や、それが紫苑のためにならないことを語り聞かせた。「縛ってもらう」立場にある受け手が縛り手にもの申すことは心理的なハードルが高い。しかし、どちらかと言えば紗英のほうが立場が上の恋人関係にある二人には、その点、心配は無用そうだった。
初夏。紫苑は再び大鍋に向かい、新しい麻縄を煮込み始めた。これからの高度で複合的な緊縛には何本もの縄が必要になる。縄は消耗品だ。何本作ってもすぐに足りなくなる。
滝のように汗をかきながら縄づくりに集中する息子の背中が、事故の前より一回り大きく見えた。