第3話:冬の基礎固め 

 年が明けた。 世間では正月を祝う時期だが、有名な寺も神社も近隣にない山間の古民家は静かなものだ。テレビやパソコンなどの不要な外部情報をもたらす機器もない。静謐な時間と麻縄の擦れる音だけがある。

 元日の朝。近隣の小さな神社に参拝した後、囲炉裏を囲んで紗英がこしらえてくれた雑煮を啜る。俺の斜め右に紫苑、斜め左に紗英。三人が正三角形の頂点に座っている。紗英はまだ俺と息子との間でバランスを取っているようだった。

 *

 一月。まずは基礎中の基礎、一本縄による「後手縛り」の反復だ。紫苑の手つきは軽快だった。手法も時間的にも問題はない。昔の俺の教えが手続き記憶として刻まれているようだ。だが、完全ではない。

「結び目が大きい」
 俺は酸素チューブを指で弄りながそれに紗英もゴツゴツして不快なはずだ。結び目は主張させるな。着物の帯のように平らに、肌の一部のように気配を殺して結べ」
 紫苑がハッとして、結び目を絞り直す。
「『結び』『留め』『掛け』は基本中の基本だ。違いを覚えているか?」
「たしか、テンション(力)が掛かっていなくても解けないものが『結び』。一定以上のテンションが掛かり続けることを前提としたものが『留め』。ただ縄がかかっているだけのものが『掛け』だったはずだ」

「知識としてはわかっているようだな。では解いてみろ」
「あ、ああ……確か、引っ張れば解けたはずあ、あれ?」
 ある方向に必死に引っ張るが、解ける気配はない。
「違う。無理に引くな。結び目自体を掴んで、内側に折るように押し込め」
「あ!そうだった……よし、解けた!」

 緩んだ縄を見て無邪気に喜ぶ息子の目を見据える。
「いいか、緊縛は常に窒息や血流障害のリスクと隣り合わせだ。紗英の様子がおかしい時、お前がもたついて結び目が解けなければ、取り返しのつかないことになる。重い後遺症が残ったり、最悪、お前の縄が紗英を殺すことになる」

 紫苑は息を呑み、真剣な眼差しを俺に向けて聴き入った。
「縄を打つときには常に、どうやったら、安全に素早く解けるのかを具体的に考えておけ。受け手に怪我をさせないこと、それが最も重要だ」
 紗英は黙って背中を向けている。どんな顔をしているかはわからない。だがその背中は、紫苑を信頼しているように見えた。

 *

 梅の花が咲き始める二月。『後手胸縄縛り』で基本を漏れなくチェックする。使用する縄は二本。縄が増えれば考慮すべき要素も増えていく。 紫苑が二本目の縄を紗英の胸元に通し、紗英の背後で腕を固めていく。

「待て」
俺の声が飛ぶ。
「縄を這わせる位置が悪い。そこは筋肉の山(筋腹)だ」
 俺は紗英の二の腕と背中の境目を指でなぞった。
「盛り上がった筋肉の真上を強く締め上げれば、筋肉が痙攣して紗英が苦しむだけだ。もっと下、筋肉の終わり目や谷間を狙え。そして背中側は、肩甲骨の下のライン(下角)にしっかり引っかけろ」
「こうか?」
「そうだ。骨の下に縄を食い込ませることで、腕が上に逃げるのを防ぐ。人体を理解して安全で安定する場所に這わせるんだ」

「『留め』が甘い。そこで気を抜くな」
 俺は緩んだ箇所を指先で弾いた。
「しっかり留まっていない留めは掛けと変わらん。滑って、崩れや、時には事故につながるぞ。もちろん、美しさも大切だ」
 紫苑が唇を噛んで『留め』直す。

 今度は強さだ。
「『テンション』にバラつきがありすぎる。紗英に心地よい抱擁感を感じさせたいなら均等にしろ。それでは逆に痛みを与えることになるぞ」
 俺は紗英の胸元の縄と肌の間に人差し指を差し入れた。
「とはいえ、狙った所に強くかけることも重要だ。むずかしいところだな」

 リズム。
「縛るときのリズムも考えろ。ゆっくり縛る、一気に締める、その緩急を意識しろ。紗英の呼吸のタイミングに合わせるんだ。物を梱包するのではないのだからな」
 紫苑は無言で額に汗を滲ませながら、紗英の呼吸に耳を澄ませる。

 休憩中、ふと見ると、紗英の座る位置が変わっていた。 以前は俺と紫苑の中間だったが、今は紫苑の肩に触れるほどの距離に寄り添っている。紗英が紫苑の汗をタオルで拭ってやり、紫苑がその手に自分の手を重ねて覆う。俺の前だというのに、二人の周りだけ空気が甘く湿っていた。茶々を入れたくなる気持ちを抑えて、見ないふりをした。

 *

 三月。庭の雑草が芽吹きだし、山が緑に色を変え始めた。三本の縄を使う後手胸縄縛りで他の基本もチェックする。

「『閂』は、腕と胴体を縫い合わせる重要な仕上げだ。ここを一息に引き絞ることで、紗英の腕は完全に固定される。躊躇するな、一気に締めろ」
 紫苑が意を決して縄を通し、ギュッと締め上げる。紗英の胸の下を左右に這う縄が肌に食い込み、形のよいバストが強調される。

「縄を継ぐときは、結び目を増やすな。背中の結び目をアンカーにしろ。そのほうが美しい」

 継がれた縄が肩口から乳房の間を通って下の胸縄に引っかけ、逆の肩口から背中に戻される。その部分を指で触れる。
「ここが『掛け』である理由はわかるか?」
「ここは左右のバランスを整えやすくするため、だろう?」
「ここではそうだな。敢えて滑らせることによって、どこか一点に加重が掛かり過ぎてしまうことを防ぐ安全マージンとして使われることもある」
「なるほどな。余った縄はどうすればいい?」
「背中で綺麗に纏めろ。お前のセンスが問われるぞ」

 打ち終えた紫苑の縄を講評する。
「まず、遅すぎる」
 俺は時計を見ずに告げた。
「時間がかかればかかるほど紗英の肉体に負担がかかることを忘れるな」  
「ああ」
「見栄えも良くない。平行であるべき日本の胸縄が斜めだ。背骨を通る縦縄もずれている。余った縄のまとめ方もごちゃごちゃだ。紗英、テンションはどうだ?快適か?」
 紗英のほうに目をやると、納得のいかない表情を浮かべている。
「…..左右のバランスが悪くて、しっくりきません」
「だ、そうだぞ紫苑。精進しろ。この縛りが完璧になったら次の段階へ進めてやる」
「わかった…師匠」
 俺に弟子入りしたのだから、縄の講義中は「師匠」呼びを強制していた。俺を捨てて出ていった息子への、俺からの意趣返しだ。とはいえ俺の言動のせいなので、控えめにした。
 

 数週間後。
「師匠、これでどうだ」
 息子の蒼の縄で上半身を緊縛されて正座している紗英。縄の各所に触れながらその周りを一周し、全体をチェックする。『結び』『留め』『掛け』『閂』『纏め』『テンション』『縄の継ぎ方』『縄の方向』。
 息子の蒼い縄が、息子の恋人の艶やかな肉体に無駄なく整然と巻き付き、優しく抱き締めていた。数週間前とは違い、紗英を安寧に導き、その肢体を美しく見せる拘束具として完成されつつあった。

「合格だ。所要時間も、リズムも問題なかった」
 俺の評価に二人が顔を見合わせて微笑んだ。

 その夜のことだ。 俺が寝ている母屋まで、離れから微かな音が漏れてきた。抑えきれない女の甘い嬌声。
 冬までの紗英は、俺への遠慮と紫苑との関係のぎごちなさから交わるのを我慢していたようだった。だが今、聞こえているのは紛れもなく雄を受け入れた雌の啼き声だ。
 週末ごとの緊縛の稽古が、二人の仲を修復し、より深めた。春を迎える現在は、性愛のスイッチを入れる前戯になっているのは明白だった。紫苑の縄で心を縛られ、その高揚感のまま夜の情事に雪崩れ込む。

(…..やれやれ。俺は死にかけの病人であって、石仏じゃないんだがな)

 苦笑し、酸素マスクの位置を直して布団を被る。不快ではなかった。俺の目の前でいちゃつくようになったのも、夜に交わるようになったのも、紗英の中で「父親代わりの俺」という存在が薄れ、恋人・紫苑の存在感が濃くなった証だ。 嫉妬心と、それ以上の安堵と満足があった。俺が消えても紗英は孤独にはならない。俺の縄が二人を結ぶ懸け橋となっている。
 
 俺が愛した女が紗英の母であり、紫苑の義母であることをそろそろ二人に伝えるべきか?いや、今は縄に集中するべきだ。全てを話すのは、その後でいい 。
 春が近づいている。基礎は固まった。いよいよ、俺の縄の神髄を息子に伝授する時が来た。
 ――俺は弱い人間だ。

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