第5話:紫苑の縄 

 夏を迎えた。山間の渓谷沿いにある古民家の周囲では、蝉時雨(せみしぐれ)が滝のように降り注いでいた。日中、外を歩くと陽射しがじりじりと肌を焼くらしい。だが、その体力を失い、もはや一日中床に臥せっているだけの俺の体感温度は、氷点下のようだ。酸素濃縮装置の排気音が俺の呼吸そのものになっていた。

 夏の間、紫苑と紗英は憑かれたように縄に向き合い続けた。俺の技術は全て伝えた。これからは、一度全てを吸収し、ものにした紫苑がその内容を取捨選択し、息子独自の紗英のための縄として昇華していく段階だ。俺はただそれを見守るだけ。

 二人は事故のことを契機として、お互いに言いたくても言い難かった全てのことを胸襟を開いて徹底的に話しあったようだ。息子と紗英の関係は、更に強固で親密なものへと進化を遂げている。
 だが、まだ画竜点睛を欠く。俺の見る限り息子の縄の完成も近い。紫苑の縄は、俺の縄とは違う領域へと踏み込みつつある。俺は病魔と闘いながら、ただそのときが来るのを待ち続けた。

 *

 九月中旬。残暑の残る蒸し暑い日の午後だった。息子が緊張を秘めた顔で一言「俺の縄を見てほしい」と言ってきた。 介助を受けて緊縛用の部屋に移動する。

 一糸纏わぬ姿の紗英が、畳の部屋の中央に立って俺たちを待っていた。昔、俺が死にゆく紗夜をこの世に縛り付けようとして、運命に必死に抗った部屋。日差しは届かないが風通しは良い。それでも涼しくはない。
 俺がかつて愛した紗夜の一人娘の紗英。その肌は汗ばみ、窓から射す陽光を受けて真珠のように輝いている。美しい。今なお鮮明に記憶に残る、紗夜の裸身と瓜二つ。ただその姿は、紗夜と違って生命力に満ちている。近くには、十数本の蒼い縄が整然と並べられ、その時を待っている。

 敷かれた布団に横たわり、見やすい角度に頭を上げた。
「始めろ」
 掠れた声の合図で、紫苑が端の縄を手に取った。その手つきには、もはや迷いも、焦りも、驕りも見てとれない。1年近くにわたる激しい修練で培われた自信と集中、そして女への深い愛情だけがあった。

「これから、俺の縄の集大成を披露する。その目に焼き付けて冥途の土産にでもしてくれよ、師匠……いや、父さん」
「ぬかしよる。御託はいいから早くしろ。伝説の緊縛師の審査を前に、時間の大事さを忘れたか」
 ほぼ十年ぶりの『父さん』との呼びかけで涙腺が緩みそうになるのを、憎まれ口を叩いて誤魔化した。

 俺に一礼した紫苑はまず、後手から『静』の縄で紗英の身体全体を優しく、包むように拘束して安心感を与えた。 次に『華』の縄で四肢を操り、豊かな胸や剃毛された股間などの艶めかしい肉体を見せつけるあられもない姿勢に固定して、羞恥と快感を煽った。 そして最後に『業』の縄できつく縛り、全体重を支点となる数カ所に分散させて宙へと吊り上げた。
 恋人・紫苑の蒼色の縄を幾重にも纏って浮上した紗英の体から、恋人を想起させる香りが紗英自身の香りと混じり合い、熱気と共に部屋中に充満していった。

 俺の緋色の縄は「劫炎」だった。欲にまみれた俺の縄が燃やし尽くして更地に還した女の心。そこへ、愛に満ちた息子の「新緑」の縄が、新たな生命力を漲らせる。

「あ……ぁ……」
 紗英の口から、言葉にならない吐息が漏れる。苦痛とも悦楽とも名状しがたい複雑な響き。表情筋は緩みきり、目は白目を剥く寸前で焦点が合っていない。口元から唾液がダラダラと垂れ落ちて畳に大きな染みを作る。
『縄酔(なわよ)い』だ。 極限の圧迫と解放の波状攻撃により、脳内麻薬が爆発的に分泌された状態。紗英の理性が完全に飛び、ただ快楽と安息の波間にゆらゆらと漂うだけの存在と化している。

 俺も紗夜を何度も『縄酔(なわよ)い』に導いた。しかしこれほど深く、これほど安らかな顔をさせたことはない。紗英を緊縛するとき、俺が常に紗英の母・紗夜の姿を重ね合わせていたからだろう。だが紫苑は、ただ一心に紗英だけを見ている。

 吊られている紗英の体が痙攣してビクン、ビクンと大きく跳ね回る。何度も、何度も。性器に触れてすらいないのに、全身が性感帯となった彼女は、恋人・紫苑の熱い視線と、その分身である蒼い縄の締め付けによる愛撫だけで達し続けた。

 紗英は俺が到達させられなかった涅槃(ねはん)を見ていた。紗英を見守る息子もまた、法悦の域に達していた。

(見事だ)
 俺は心の中で拍手を送る。 ふっと、体が軽くなった。視界の端が白く霞む。宙に浮かぶ紗英の姿が紗夜に変わった。 ああ、紗夜。俺は間違っていたのかもしれない。縛るとは、縛り付けることではなく、解き放つことだったのだな。

「素晴らしかった。何も言うことはない、免許皆伝だ」
 緊縛を手際よく解いた息子と、息子に抱きかかえられている紗英にそう告げる。二人は顔を見合わせて頷き、屈託のない輝く笑顔を浮かべた。

 九月下旬。
 気の抜けた俺の健康状態は急速に悪化していた。気力の大切さを死の間際に思い知ることになるとは皮肉なものだ。
 
 息子との関係は修復できた。俺の技術も伝承してくれた。愛した女の娘は息子が大事にしてくれる。思い残すことは何もない。息子よ、紗英よ、二人でともに幸せになれ。
 目を閉じて紗夜の元へ向かおうとする。その瞼に忘れていた一人の女の顔が浮かんだ。

 ______いや、あった。俺は瞼を開いた。

 俺は謝らなければならなかったのだ。 紫苑の実の母親に。 自分の美学だの緊縛だのにかまけて、家庭を顧みず、家を飛び出させてしまった。可愛がっていた紫苑を連れて行くことは、俺の跡取りがいなくなるから許さなかった。
 その最初の妻に頭を下げて謝罪しなければならない。今の俺にはわかる。しかし、もはや不可能だった。紫苑の話によると、優しい金持ちの男と再婚して幸せになっているらしい。それが救いだ。

「すまなかった、紫(ゆかり)」
 今わの際の俺にできる最大限のこととして、謝罪の言を呟いて、心の中で頭を下げた。

 紗夜のことは手紙にしたためてある。
 結局俺は、紫苑と紗英に話せなかった。「修行の邪魔になる」「全てが終わってから」などともっともらしい理屈を並べて、先送りにしただけだ。真実を話して、孤独な晩年に偶然にも手に入れた「家族」の温もりを失うことを恐怖したのだ。

 伝説の緊縛師。緋色の縄使い。数々の異名で持て囃され、多くの弟子や愛好家が俺を崇めた。しかし、驕り高ぶった俺からその全員が離れていった。

 それもむべなるかな。紫(ゆかり)を幸せにできず、紗夜を死なせ、その娘を身代わりにして縄を打ち続け、母親との関係を最期まで直接告げる勇気を持てなかった、格好悪い男にすぎない。

 ______やはり、俺は弱い人間だった。
 最期の思考が自嘲と共に無に帰していく。 俺の目蓋が自然に閉じられる。 その先に、俺を待ちくたびれている紗夜の姿が見えた。

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