第2話:蒼き抱擁 

 師走に入り、山間の古民家は底冷えが厳しくなってきた。 その中で、囲炉裏の切られた居間だけが異様な熱気と甘い香りに包まれている。

 俺の鼻腔にはカニューラ(酸素チューブ)が差し込まれている。足元には酸素濃縮装置が鎮座し、規則的な機械音を立て硬化した俺の肺へ酸素を送り込み続けている。 プシュー、プシューという無機質な医療機器の音。
 目の前で繰り広げられているのは、それとは対照的な、あまりに有機的で濃密な光景だった。

「……いい香りだ」  
 俺が酸素マスク越しに呟くと、大鍋をかき混ぜていた紫苑が照れくさそうに鼻をこすった。
「邪道かもしれないけど、試してみたかったんだ」

 土間の大鍋で湯煎(ゆせん)されているのは、仕上げ用のオイルだ。通常、麻縄の「なめし」には椿油や蜜蝋を使う。
 紫苑はその配合に、彼自身が普段愛用しているオーガニックのヘアバーム(整髪用の固形油)を溶かし込んだ。サンダルウッドとベルガモット。紫苑が動くたびにふわりと漂う、独特な清潔感のある匂い。

 俺はその発想に舌を巻いた。縄は縛り手の指の延長だ。ならば、その縄が縛り手と同じ匂いを纏(まと)うのは理に適っている。紗英が目を閉じて縄の匂いを嗅ぎ、「ああ、紫苑に守られている」と感覚で理解する。俺の「緋」にはなかった発想だ。俺の縄は焦げ付くような情念の匂いだった。

 *

 夕刻。紫苑特製のオイルを十分に吸い込み、冷やされて完成した「蒼い縄」が、畳の上にトグロを巻いている。 濡羽色(ぬればいろ)に近いほど深く、光が当たれば鮮烈な蒼の色彩を放つその縄は、以前のような乾いた繊維の塊ではない。しっとりと重く、生き物のような艶を帯びている。

「紗英さん。……触ってみて」  
 紫苑が縄を差し出す。
 紗英が恐る恐る、その蒼い束に指を這わせた。
「……冷たくない。不思議。なんだか、人肌みたい」
「油が馴染んでいる証拠だ。匂いはどう?」
 紗英が縄に顔を寄せ、小さく息を吸い込む。彼女の瞳が揺れ、頬が微かに朱に染まる。
「これ……紫苑さんの匂いがする」
「どう思う?」
「うん……紫苑さんに後ろから優しく抱きしめられているみたい」

 紗英のうっとりとした表情を見て、息子が目指した縄が完成したことを理解した。俺は酸素チューブを引きずって二人の近くへ座り直した。
「よし。では、その縄を紗英に『着せて』みろ」
「着せる?」
 紫苑が問い返す。
「そうだ。今日は縛らなくていい。ただ縄を体に這わせ、肌に馴染ませろ。出来たての縄はまだ若くて硬い。紗英の体温と脂(あぶら)を吸わせて初めてその縄は、『紗英専用』になる」

 紫苑が頷き、紗英の背後に回る。衣服を脱ぎ捨てた紗英の白い背中に、蒼い縄が滑り落ちる。紫苑の手つきは慎重だった。以前のような、手順を追うだけの動きではない。縄の繊維の一本一本が紗英の肌のキメに入り込むように、ゆっくりと、撫でるように縄を繰り出していく。

 俺の傍らの機械音だけが響く中、衣擦れならぬ、縄擦れの音が微かに響く。それは不快な摩擦音ではない。上質な絹が擦れ合うような、湿り気を帯びた心地よい音楽だ。

 紫苑のバームの香りが紗英の体温で温められ、部屋中に拡散していく。 紗英は目を閉じ、艶然とした表情で紫苑の縄の香りと感触を確かめている。縛られているのではない。彼女の言葉通り、紫苑の気配そのものに包まれているのだ。
 縄が胸を通り、脇を抜け、再び背中で交差する。 時折、紫苑は縄の上から紗英の肌を掌で包み込み、体温でオイルを更に浸透させていく。

(……そうか。お前の『蒼』は、羊水か)

 俺は確信した。俺の縄は女を極限まで追い込み、自我を焼き尽くすことで解放へ導く「還元」の儀式だった。 だが、息子・紫苑の縄は違う。その香りと感触で繭(まゆ)を作り、外界のノイズを遮断し、その中で紗英に惜しみない愛を注ぎ新たな生命力を漲らせる「再生」の儀式だ。
 母・紗夜を失い、仕事一筋の父との暮らしの中で深まっていった喪失感と愛情への飢餓。俺の縄でリセットされた、今の紗英の心の穴は、恋人・紫苑が埋めるべきなのだ。息子が精魂込めた、紗英専用の蒼い縄での愛撫によって。

「紫苑、そこだ」
 俺は口を挟んだ。
「脇の下の縄が浮いている。もっと密着させろ。だが食い込ませるな。皮膚一枚分だけ沈めるイメージだ」
「こうか?」
「そうだ。……いい手つきになった」

 息子の指先が、縄を通じて紗英の鼓動を感じ取っているのが見て取れた。 紗英もまた、縄を通じて息子の掌の熱を感じている。二人の呼吸がシンクロし始める。吸う息で縄が張り、吐く息で緩む。呼吸の波間に蒼い縄が楽しそうに踊っている。

 俺は咳き込みそうになるのを堪えて、流量ダイアルを少し上げた。 肺が軋む。だが不思議と苦しくはない。目の前にある光景は、縄への欲望に流されるまま、無頼に生きてきた俺にとって、あまりに眩しく、尊かった。

 紫苑が、背中の中心に最後の結び目を作った。ほどほどの「強さ」と「解けやすさ」を併せ持つ縛りの基本 「本結び」。 蒼い亀甲の模様に全身を包まれた紗英は、夢見心地のまま深く息を吐いた。
「……あったかい」
「縄なのに、重くないの。まるで、ずっと前からこうしていたみたいに……」

 息子が安堵の息を漏らし、額の汗を拭った。愛する女を激しく抱いた満足感と、困難な仕事を首尾よく終えた職人の充足感とが混ざり合ったような、荒々しい男の顔をして微笑んでいた。
 俺に縄の教えを乞うて頭を下げたときに、一皮剥けたことは間違いない。俺のような男に近づくことが、紗英との関係に吉と出るかはわからんが。

「上出来だ」
 俺は短く告げた。
「今日から、その蒼い縄は、お前たち二人の体の一部だと思え」

 窓の外では、いつしか雪が舞い始めていた。 降り積もる雪が、外の雑音を吸収して静謐を深めていく。
 紗英が訪ねて来る前の年までは、俺の孤独感を強める不愉快な降雪だった。しかし今は、家族三人、水入らずで過ごす週末をお膳立てしてくれているようで愉快だ。
 俺と息子と、おそらく嫁になるであろう、昔俺が愛して壊した紗夜の娘との。

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