4章:息子の蒼い縄(鬼灯) ー第1話:緋と蒼の縄 

 肺が石に変わっていく感覚がある。 呼吸をするたびに胸の奥で乾いた音がする。酸素が指先まで届かず、常に薄い膜を通して世界を見ているようだ。死への恐怖がないと言えば嘘になる。だが、それ以上に強い郷愁があった。 目を閉じれば、闇の向こうに紗夜がいる。

 あの日――。  病に侵され、日に日に衰えていく紗夜は俺に懇願した。
『お願い、あなた。私を縛って。あなたのその強い縄で、逃げていきそうな私の命をこの世に縛り付けて』
 それは、死にゆく女の執念であり、俺への至上の愛だった。

 俺は応えた。俺にできることの全てを、俺の持てる技術と魂の全てを注ぎ込んだ。俺の「緋(ひ)」の縄。それは炎だ。彼女の残された僅かな生命の蝋燭を、激しく、美しく燃え上がらせるための業火。
 俺は毎晩、自分の命まで燃やす勢いで激しく縄を打った。紗夜は悦び幸せに咽び泣いた。紗夜は医師が宣告した余命より、少しだけ長く生きた。俺の縄が彼女を少しだけ長らえさせた、そう確信している。
 俺が紗夜の所へ旅立つ日も遠くない。だが、俺にはまだ、最後に果たさなければならない大仕事が残っている。

 最期は俺の腕の中で、極限まで燃え尽きた灰のような、安らかな顔で逝った。全てを出し切った幸福の涙を流して。
 だが――幼かった紫苑には、それが理解できなかったのだろう。鬼気迫る俺の形相。激しく食い込む縄。泣き叫ぶ義母。残念だが、愛をまだ知らないあの子の目には、俺が愛する女を虐待し、なぶり殺しているようにしか映らなかったようだ。
 思春期を迎えた息子に説明を試みたが時期尚早だった。むしろ俺を憎む結果にしかならなかったのは、まさに因果応報というものだ。
 18歳で成人し、大学生となったとき、俺のもとから離れて本当の母親と一緒に暮らすと聞かされた。数年前から密かに連絡をとっていたらしい。あの女が再婚して幸せに暮らしていると聞き、地獄へ持っていく大きな荷物がひとつ減ったことを素直に喜んだ……一人になったこの家で。

 *

 土曜の午後。土間の作業場に湯気が立ち込めていた。 大鍋で煮立っているのは、京都から取り寄せた最上級の麻縄だ。鍋をかき混ぜているのは、緊縛師としての道は歩まないときっぱり宣言して俺と縁を切った息子だ。

「火加減が強い。繊維が死ぬぞ」
「……わかってる」
 息子が慌てて薪を調整する。 慎重で、所作に迷いがない。10代の頃に俺が無理やり教え込んだ技術が染み付いている。縁側に腰掛け、息子の背中を眺めながら、湧き上がる歓喜と安堵を噛み締める。
  戻ってきた。あの弱虫だった息子が、俺を睨みつけ、「縄を教えろ」と言った。皮肉なものだ。俺が紗夜の命を燃やし尽くしたその業が、巡り巡って、紗夜が慈しんだ息子を俺の元へ引き戻したのだから。

 紫苑は俺の「緋色」を拒絶した。息子が選んだのは「蒼色」だった。鍋から引き上げられた、濡れて重くなった縄を紫苑がチェックする。その色は単なる青ではない。やや緑がかった青々とした深い青色を指す日本の伝統色だ。鬱蒼とした森の木々。芽吹く若葉。天に向かって伸びる茎。 圧倒的な「生命力」の象徴だ。

(……そうか。お前は「再生」を選ぶのか)

 俺の緋色は、自我を焼き尽くし、更地に戻す「還元」の色。紗英という女の、こじれた自意識や鎧を焼き払った。そして紫苑。お前はその灰となった更地に、蒼い縄で水をやり、種を撒き、新たな命を芽吹かせようというのか。
 還元から再生へ。俺が愛した女の娘であり、俺が壊した娘であり、お前が愛する娘である紗英を、よりいっそう魅力的な女として蘇らせようというのか。

 贖罪として紗英を縛り続けてきた俺には眩しすぎる、あまりに純粋な思念だった。紗英が紗夜の娘であることを告げるべきか、俺はまだ迷っていた。

 *

 煮沸を終えて乾燥の工程に入る。 囲炉裏に多めに炭をくべて部屋の温度を上げる。濡れた蒼い縄が梁(はり)から幾重にも吊るされた。滴り落ちる雫を皿が受け止める音が、静かな室内に響く。 一晩かけて、芯までじっくりと乾かすのだ。

 夜。囲炉裏を囲む三人だけの時間が流れていた。 会話はぎごちない。それでも、孤独だったこの古民家に、今は人の気配と暖かな温もりが満ちている。

「鬼灯さん、お加減はいかがですか? お薬の時間ですよね」
 紗英が水と薬を差し出してきた。彼女は俺の世話を焼くために、週末ごとに通ってきてくれている。 食事の支度や掃除に、俺の身の回りの世話。彼女の手際はすばらしく、職場でも有能なことがうかがえる。
 作った雑炊を俺に取り分け、紫苑には大盛りの丼をよそい、自分は最後に慎ましく箸を取る。俺と紫苑が縄の話をしている間、彼女は口を挟まない。ただ黙って、吊るされた蒼い縄を見上げたり、紫苑が真剣な顔でメモを取る横顔を愛おしそうに見つめたりしている。俺の背中をさすってくれる手のひらからは、紗夜と同じ温もりが伝わってくる。

 不思議な光景だ。憎しみあっていた父子と、その二と深い関係にある一人の女。だが、ここにあるのは奇妙なほど穏やかな安寧だった。紗英が居ることで、俺と紫苑の緊張関係が緩和されている。紗英自身もまた、トライアングルの一角として、彼女なりの居場所と安らぎを見出しているようだった。
 吊るされた蒼い縄が、囲炉裏の火に照らされて揺れている。それはまるで、俺たち三人にとっての命綱のように見えた。

 *

 翌朝。乾ききった縄は、空気を孕んでふわりと軽くなっていた。
「次は焼きだ。準備しろ」
 俺の指示に、紫苑がガスバーナーを手に取る。縄の表面にある無数の毛羽(けば)を、炎で瞬時に焼き切る作業。ゴーッという音と共に青い炎が走る。 紗英が、少し離れた邪魔にならない場所から、穏やかな眼差しで見守っている。

 紫苑の横顔を見ていると視界が時折、滲む。そこにいるのが若き日の自分自身でありように錯覚し、微笑む紗夜の面影さえ重なることがある。

 紗夜の娘、紗英。俺は彼女に対して深い罪悪感を抱いている。
 過去、幼い頃の紗英から母親の紗夜を奪ったこと。その結果、彼女の心に深い穴が開いたこと。今、紗夜の心の穴を塞ぐために求められるままに贖罪として縄を打った。だがそれは自分にとっての都合のいい建前だった。本音では、かつて愛した母親の紗夜とみなして、己の欲望のままに緊縛していた。
 だが、それも終わりだ。息子の蒼い縄が、俺の縄が還元した彼女の心に新たな息吹を与えるだろう。

 俺の偽物の愛ではない、本当の愛が込められた紫苑の緊縛で、紗英の心の穴が生涯にわたって埋められ続けること。それが俺の願いだ。そして、そのために、俺の縄の全てを余すところなく紫苑に継承すること。それが俺の紗英への本当の贖罪であり、逝く前に絶対に果たさねばならない最後の大仕事なのだ。

「親父、これでいいか」  
 紫苑が焼き上がった縄を差し出す。手に取る。まだ熱い。手触りを確認する。滑らかだ。数年ぶりにしては上出来だ。 だが、まだ「魂」が入っていない。綺麗なだけの紐だ。

「悪くない」
 俺は短く告げた。
「だが、ただの紐だ。これで人を縛れば、ただ痛いだけの拷問になる」  
 紫苑が唇を噛んで俺を見る。
「どうすればいい」
「鞣(なめ)しを忘れたか?油を塗って一晩、寝かせるんだ。蜜蠟、馬油、ベビーオイル、色々な油を試して、紗英が納得のいく質感に仕上げろ。お前が紗英を縛るのは、お前の縄が完成してからだ」

 俺は咳き込みながら立ち上がった。肺がきしむ。だが、手本を息子に見せなければならない。
「さあ、紗英。ここへ来い」  
 彼女が静かに進み出て、俺たち二人の前で恥じらいながら服を脱ぎ、美しいその裸身を晒した。

「まずは俺が手本を見せる。俺の『緋』がどうやって女を無に帰すかを、その目で盗め」

 俺の命の灯火は残り少ない。 だが、もう少しだけ待っていてくれ、紗夜。俺の息子の蒼い縄が、お前の娘を再生する命の縄に成長するまで逝くわけにはいかぬのだ。まずはこの1年、俺が紗英に打ってきた「静・華・業」の縄を順番に紫苑に見せることから始めよう。

 月明かりの差す、畳と梁のある緊縛部屋で紗英を後手に縛りながら、俺は残る命を燃やし始めた。

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