梅雨が終わり、夏を迎えた。私の世界は変わった、というより私自身が変わった。周囲の反応の変化がそのことを私に赤裸々に示してくれた。
オフィスでの私は以前のような「氷の女」ではないらしい。
部長に呼ばれたのは七月の終わりのことだ。
「最近雰囲気が変わったな。刺々しさが消えて余裕ができた。いいことだ」
仕事の効率は落ちていない。むしろ精神が安定したことで判断の迷いが消えた。
以前は遠巻きにされていた同期の女子社員たちからも、頻繁に声をかけられる。
「小鳥遊さんって近寄りがたかったけど、最近すごく柔らかくなったよね」
そんな流れで誘われたのがお盆休みのバーベキュー。 場所は奥多摩。 全くの偶然だが、鬼灯さんの住まいのすぐ近くだった。
「ありがとう。愉しませてもらうわね」
二つ返事で参加を表明した。同僚も嬉しそうに頷いた。
河原でのバーベキューは盛況だった。 私は数年ぶりに水着になった。シンプルな白いビキニ。快晴でとても暑かった。40度近い気温だったのではないか。
それに対して、川の水はとても冷たくて、とても澄んでいた。長時間は水浴びしていられなかったが、その落差がいかにも真夏の休日らしく、清々しい気持ちで過ごせた。
同僚の男性陣から向けられる視線には熱がこもっていた。以前なら不快だったその視線も、今は余裕を持って受け流せる。 日頃の縄による刺激で肌艶が良くなっている自覚があった。女としての自信が心のゆとりを生んでいた。
けれど私の心はここにはない。 肉が焼ける匂いと歓声の中、視線は無意識に山の方角へ向く。 この山の向こうに彼がいる。晴耕雨読の暮らしを体現している彼。今頃、何をしているのだろう?畑に出ているだろうか?猛暑だから室内で書を読んでいるだろうか。それとも…少しは私のことを考えてくれているだろうか。
「…会いたい」
「おやおや~、だれに会いたいのかな~」
思わず口に出してしまったセリフを耳聡い同僚女子に聞かれてしまった。
「だれって…まだ見ぬ未来の旦那様に、よ。ともに合コン頑張りましょうね!」
そんなふうに誤魔化して、鉄板のそばで入り混じる男女の群れに突っ込んでいった。本音では、今すぐこの騒がしい場所を抜け出して、あの静寂の古民家へ向かいたかった。
*
その日の夕方。2次会の誘いを「近くの親戚の家に顔をださなきゃならないから」と断り、 バーベキューが終わるやいなや、着替えもそこそこに古民家へ駆けつけた。
ワンピースの下にはまだ水着を着込んでいる。 少しでも彼を喜ばせたくて、そしてあわよくば彼をその気にさせたくて、私はお風呂場で愚行に走った。
「汗をかいたでしょう。お背中流します」
白いビキニ姿の私が狭い浴室で甲斐甲斐しく世話を焼く。 スポンジで彼の広い背中を泡だらけにしながら、豊かな胸をこれ見よがしに押し当てる。 鬼灯さんは無言だった。 全く動じる気配がない。 ただ背中を流させ、湯に浸かり、上がるときに一言だけ言った。
「湯冷めするぞ」
父親が娘を叱るような口調だった。 私の色仕掛けは古木の前の蝉のように虚しく空回った。
*
鬼灯さんと会えない平日の夜。自宅のベッドで毎日のように、彼から譲り受けた麻縄を身体に這わせる。私を散々縛って使い古した、廃棄する縄。 不器用な手つきで太ももを縛る。 きつく。もっときつく。 彼がしてくれたように肉に食い込ませる。
(鬼灯さん……)
目を閉じて彼の手の感触を反芻する。 気持ちを抑えきれずに指先で秘部を探り、自身を慰める。 身体が反応する。ひとときの快楽に溺れる。
けれども、絶頂の後に訪れるのは底知れぬ渇望だった。 縄だけではなく彼自身にも愛されたかった。彼の縄で埋まるのは心の穴だけ。肉体の昂ぶりを鎮めてもらうには、私自身の穴を彼自身で埋めてもらうしかない。それではじめて「小鳥遊紗英」という女が完成するのに。
床に落としてしまった縄に目を向ける。彼の意志が通っていない縄は、冷たくて無機質だ。
*
八月の終わり。 古民家の庭では蝉時雨が止み、ヒグラシが物悲しいカナカナという鳴き声を響かせている。 鬼灯さんと縁側で二人並んで夕涼みをする。線香花火が落ちるような寂しさが胸に去来した。 意を決して彼の作務衣の袖を掴む。
「鬼灯さん」
彼は静かにこちらを見た。
「私の心はあなたのものです。どうか身体も貰ってください」
真っ直ぐに見つめる。 これ以上ないほどの懇願。
「私、女として魅力が足りませんか」
鬼灯さんは首を横に振った。
「お前は俺にとって、過分なほど美しい」
「なら、どうして」
「俺はお前を抱くわけにはいかない」
拒絶。 何度目かの、そしてこれまでで一番重い拒絶だった。
食い下がる私に、彼は懐から見慣れない薬袋を取り出した。 白い錠剤と、一通の診断書。
「特発性肺線維症」
彼が淡々と告げる。
「肺が線維化して硬くなる病だ。治療法はない」
呼吸を忘れた。血の気が引き、 頭が真っ白になる。
「俺の肺はもうじき石のように固くなり、動かなくなる。俺の人生の終わりは近い。余命は長くて二年だ」
二年。 この屈強な人が。私を縄で支配し、魂ごと救い上げてくれたこの人が。 死ぬ。
嘘だと言って欲しかった。だが彼の瞳に嘘の色はない。いつもの静謐な、すべてを見通すような曇りのない瞳だった。
「俺という死に損ないに縛られるな」
慈愛に満ちた声が残酷な命令を下す。
「お前のその美貌と、今の優しい心があれば、慕ってくれる男は山ほどいるはずだ」
「いや……私は、あなたが」
「まっとうな道を歩んで来なかった俺からの、心からの助言だ」
強い言葉が私の反論を封じる。
「お前の心身の両方を満たし、ともに人生を歩める男と愛し合え。自分と同じ世代の、生気溢れる男を」
涙が溢れた。 声にならなかった。 ほんとうに愛しているからこそ、安易に愛の言葉を囁き安易に私を抱くことを良しとせず、冷静に私を突き放す。 それは麻の縄よりも強い、鋼の意思の縄での、解くことのできない業の束縛だった。
ヒグラシの声が遠くなる。 私の短くて甘い夏が終わりを告げようとしていた。鬼灯さんの縄によって心が満たされた日々は、バレンタインデーに彼に贈ったガナッシュ・オリジンのように、苦くて甘い時間だった。