3章:偽りの幸せ(紫苑) ー第1話:成就の違和感 

 九月。空が高くなり、鰯雲が流れる季節になってもまだまだ暑い日が続いていた。僕の胸の高鳴りも、収まるどころか熱いビートを保ったままだった。  
 そんな僕の人生に、ある日、信じられない奇跡が起きた。 高嶺の花であり、氷の女帝と恐れられていた小鳥遊主任――紗英さんが、僕の恋人になってくれたのだ。

 社内ですれ違うたびに柔らかく微笑むようになった、憧れの上司、小鳥遊紗英。「鉄の女」の面影は薄れ、女神のような慈愛を湛えるようになった彼女に、僕は十回目となる食事デートの誘いをかけた。 
 夏の間に、箱根の九頭龍神社をはじめとする恋愛成就の御利益で有名な神社を何箇所も参拝し、これまでで最高の想いを込めた。これでダメなら主任のことは諦めようと思い、直接、はっきりと、目をまっすぐに見て誘った。

「いいわよ。今度の土曜日のランチにしましょう。どこに行く?」
 まさかの即答だった。 しかも日時指定付き。

 最初の食事は僕が予約した銀座の高級フレンチレストラン。
「ご馳走様。でも次からはあんな肩肘張るようなコスパの悪いお店より、もっと気楽でリーズナブルな居酒屋とかのほうがいいな」
 食後、そう言う彼女から多めの食事代を渡されて解散した。夕方からどこかへ行くそうで、ソワソワしていた。もしかして本命とのデートで僕は当て馬?とも思ったりもした。今はそれでも十分だった。2回目からはありがたくそうさせてもらった。

 それから数回、平日の仕事の後に食事や映画を重ねた。彼女はいつも穏やかで、僕の拙いエスコートに文句ひとつ言わずについてきて、ミスがあれば上手にフォローしてくれた。

 そして三週間後の5回目のデートの帰り道。月曜日の夜だったが翌日は会社の創立記念日でお休み。 夜景の見える人気のない公園を選んで、震える声で想いを告げた。間が空いた。ああ。発色の綺麗な口紅が塗り直された美しい唇をぼんやり眺めながら、『ごめんね、私には好きな人がいるの……』、みたいなセリフが紡がれるのを待った。

 しかし、そんな僕に、彼女は決意を秘めた瞳で頷くと、思わぬセリフを口にした。
「いいわ。よろしくね。紫苑くん」 
 事態は、まさに急転直下だった。
 夢じゃないかと思った。 高嶺の花。年下の、仕事のできない男が釣り合うはずのない女性。そんな「彼女」が、僕の腕の中に飛び込んできた。身体が僅かに震えているのが気になった。

「明日はお休みだし、二人でもっと過ごしたいわ」
僕の耳元で囁き、手をぎゅっと握ってきた紗英さん。本当にいいんですか?と目で問うと、無言でうなずいた。
 タクシーを拾って行き先を告げる。
「道玄坂までお願いします」

 *

 渋谷のラブホテルの一室。
 シャワーを浴びてバスローブ姿で出てきた彼女は、直視できないほど艶めかしかった。濡れた黒髪、上気した白い肌。清楚で厳格な上司の仮面を脱いだ彼女は、無防備な一人の女性だった。顕になった素肌は陶磁器のように白く、羞恥の熱を帯びていた。

「……綺麗だ」
 僕が吐息混じりに囁くと、彼女は頬を朱に染めながらも、恥じらうことなく僕を見つめ返してきた。
「……私、こういう経験、あんまりなくて……だから、紫苑君が私を好きにして。不慣れだけど、がんばるから」  

 ベッドサイドの間接照明だけが灯る中、震える手で彼女のバスローブの紐を解き、先にベッドに入ってもらう。僕も急いで服を脱いでベッドに入る。 緊張でガチガチになっている僕の頬に、彼女がそっと手を添えた。 その瞳は潤んでいて、激しく男を求めているように見えた。

 唇を重ねる。彼女の唇は熱く、意外なほど貪欲だった。 僕がリードするつもりだったのに彼女の方から舌を絡めてくる。不慣れな動きだ。歯が当たったり、唾液を飲み込めずに零したりする。 けれども、その不器用さがたまらなく愛おしかった。 あの完璧主義の紗英さんが、なりふり構わず僕を喜ばせようとしてくれているのだ。

「ん、ぁ……っ」
 僕が首筋にキスを落とすと、彼女の身体が過剰なほどビクリと跳ねる。
「そんなに感じるんですか?」
「は、い……もっと、して……」
 彼女の手が僕の体中を撫でまわす。焦ったような手つき。まるで身体を差し出すことが義務であるかのように、必死に僕を受け入れようとする。そのギャップに僕の理性は消し飛んだ。
 彼女は開発されるのを待っている。清楚な仮面の下に、こんなにも燃えるような肉欲を隠していたなんて。

 彼女に煽られて、掛布団の中で僕も彼女の体中を撫でまわす。華奢な腕、張りのある太腿、ふくよかな乳房、丸みを帯びた尻。湿り気を帯びた入口。

 お互いにお互いの性器が準備万端であることを確認すると、彼女が言った。
「……ゴムは、つけてね……」
 当然だ。僕はヘッドボードに置いておいたコンドームの袋を破る。装着するわずかな時間さえもどかしい。 彼女の濡れた秘部が、僕を受け入れる準備を整えて待っている。

「……んっ、ぁ……!」  
 侵入した瞬間、彼女の身体がビクンと跳ねた。きつい。締め付けが強い。 僕は彼女の腰を掴み、深く、最奥まで自身を沈めた。
「あ、ああッ……すごい……入っ、た……」
 彼女が感嘆の声を漏らす。 腰を動かすたび、彼女は素直に反応し、僕の背中に爪を立て、もっと激しくとねだるように脚を絡めてくる。 心も身体も、すべてが僕のものになった――。

 そこからは夢中だった。 彼女の腰使いはぎこちない。リズムも少しズレている。それでも、僕の動きに合わせて必死に応えようとする健気さが、どんな熟練のテクニックよりも僕を興奮させた。
「紗英さん、イヤらしいね……すごいよ」
「紫苑くん、紫苑くん……っ!」
 彼女は僕の名前を呼ぶ。何度も、何度も。まるで自分に言い聞かせるように。 汗ばんだ身体が密着し、皮膚と粘膜が擦れ合う音が部屋に響く。 ずっと憧れていた人と繋がっている。最高だ。

 そう確信した瞬間だった。汗ばんだ彼女の肌に、違和感を覚えた。
 間接照明の淡い光の下。熱を持った肌、白く美しい太腿の内側や二の腕の裏側に、うっすらと何かの痕跡が浮かんでいた。 一定の規則性を持った、幾何学的な赤いライン。 まるで、何か硬い紐状のもので、長時間強く圧迫されたような――。

(……縄の、痕?)

 僕の脳裏に、幼い頃に見た父の仕事がフラッシュバックする。 父の部屋に転がっていた、あの独特な結び目の記憶。
「紗英さん、これ……」
 腰の動きを止めず、僕は思わずその痕に指を這わせた。
「なに……?」
 彼女が息を弾ませながら僕を見る。
「この痕……どうしたんですか? まるで縛られたような……」
 彼女の身体が一瞬、硬直した。
 でもすぐに、熱に潤んだ瞳を逸らして喘ぎながら途切れ途切れに答える。
「……っ、ん、あ……ちょっと、ぶつけた、だけ……気にしないで……もっと、動いて……」
 彼女は僕の首に腕を回し、強引にキスをして口を塞いだ。  
 再び激しいピストン運動が始まる。
「すごいっ!」
「気持ちいいっ!」
 彼女は肉の快楽に浸って、慎みを忘れて何度も何度も叫んだ。

 僕にはわかった。 快楽の波に溺れて白目を剥いてイッているときに、彼女の中に僕がいないことが。僕という肉体を通じて違う男を見ている。 まるで僕の身体を使って、埋まらない心の穴を必死に埋めようとしているように見えた。

「……っ、いく!」
 しかし思考を快楽が塗りつぶす。僕は彼女の胎内で果てた。 彼女もまた、僕の背中を強く抱きしめ、絶頂の余韻に震えていた。荒い呼吸を整えながら、愛おしさで胸がいっぱいになった心で、彼女の汗ばんだ身体を抱き寄せた。
 事後の気怠い空気の中、彼女は僕の胸に顔を埋めて眠りに落ちた。その寝顔は天使のように無垢だった。

 その後、僕たちは何度も身体を重ねた。僕は紗英さんの身体にすっかり嵌まっていた。紗英さんも同じだったと思う。なぜなら紗英さんから誘われるほうが多かったくらいだから。身体の相性は抜群だった。僕も紗英さんも、本能を剥き出しにしてお互いを貪り合った。

 彼女は驚くほど研究熱心だった。ネットの情報か、あるいは男性向けの漫画でも参考にしたのだろうか。毎回、僕を驚かせ、喜ばせるような趣向を凝らしてくれた。

 ある時は、ホテルの部屋に入り、ドアのロックを掛けた瞬間に僕のベルトに手をかけた。
「もう、我慢できないの……」
 鞄を床に放り出し、そのまま玄関のタタキに膝をついて、僕のズボンと下着を一気に引きずり下ろす。剥き出しになった熱源を、彼女は熱い口内で貪るように飲み込んだ。立ったまま、靴も脱げない状態での強烈なご奉仕に、僕は膝が震えるほどの快楽を覚えた。

 また別の日には、彼女は持参した紙袋からメイド服を取り出した。
 フリルのついたエプロンとカチューシャ。ディスカウントストアで売っているような安っぽい作りだったが、彼女が着ると本物のような魅力を放った。
「お帰りなさいませ……ご主人様」
 恥ずかしさで耳まで真っ赤にしながら、台本通りの台詞を大真面目に口にする彼女。その健気さと、スカートを捲り上げた時に見える無防備な下半身のギャップに、理性を飛ばして獣のように襲いかかった。

 極めつけは金曜日の夜だった。 ベッドサイドで彼女のブラウスを脱がせ、タイトスカートのホックを外した時だ。
 現れたのは、肌が透けて見えるほど薄い、深紅の総レースのランジェリーだった。しかも、股布の部分が最初から割れている過激なデザイン。
「紗英さん、これ……もしかして」
「……うん」
「朝から? ずっとその下着で仕事をしていたの?」
 僕が驚いて問いかけると、彼女は上気した瞳で僕を見つめ、妖艶に微笑んだ。
「ええ。貴方が興奮するかと思って……。仕事中も、服の下はずっとこんな格好なんだって想像したら、貴方に触られているような気分で、うずうずしていたわ」
 その言葉だけで達してしまいそうだった。清楚な顔をしてデスクワークをこなしていた彼女のスカートの下が、こんな淫らな状態だったなんて。

 セックスする曜日は水曜日から金曜日のどれか。そのうちの二日、三日連続ということもあった。会社帰りに寄りやすい、お互いの部屋では声が隣や外に聞こえて恥ずかしい、事後の部屋の片づけとか面倒でしょ、という三つの理由から、場所はいつもラブホテル。僕が三鷹住まいで彼女が中野住まいであることをお互いに知ると、すぐにこんなスケジュールが出来上がった。

 仕事が終わるとすぐに渋谷のホテル街へ移動して身体を求め合う。事後、近くで簡単な夕食をとり、井の頭線で吉祥寺まで一緒に帰って、ホームで反対方向の電車に乗って別れる。
 金曜日の夜は一緒に泊まることもあった。そういうときはそのまま日中の健全なデートを楽しんで、夕方までに解散した。土曜の夜も一緒に過ごしたかったが、親戚の病人の介護を順番にしていて無理とのこと。残念だが仕方ない。

 週の前半にセックスをすることは、最初に結ばれた時以降、一度もなかった。週の前半は紗英さんは「週の後半に早く帰るためよ、我慢しなさい」と僕に「待て」をさせて、いつも遅くまで残業していた。
 
 そんな風に過ごすうちに、彼女の柔らかな肢体に残っていた幾何学模様の残滓(ざんし)の記憶は、幾層にも重なる快楽の記憶の下に埋もれていった。それでも、得体の知れない不安が僕の胸に澱(おり)のように沈殿していた。

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