第4話:縄酔い 

 それからの五月は、私の生と快楽の感覚を根底から書き換える期間だった。肉体の限界を試すような苦痛を与えられる「業」の縄。この縄が、安寧を感じる「静」の縄と羞恥の「華」の縄を時折挟みつつ何度も打たれた。
 週末ごとのその儀式を通じて、私の心身には、痛みや羞恥を脳内で快楽と生の実感へと変換する回路が確実に形成されていった。

 六月に入ると、古民家は湿った空気に包まれた。その夜の雨は梅雨にしては激しかった。豪雨が屋根や雨戸を殴りつける音が外界からの断絶を強調して二人だけの世界を演出する。 昔風の裸電球の仄かな明かりに照らされた和室で、鬼灯さんが静かに告げた。
「今日は全ての縄を打つ」  

 その言葉の重みに身震いした。恐怖ではない。これから与えられる極限への熱望だった。

 鬼灯さんは、まず、私の腕を背中側で複雑に折り畳んで縄を打った。私は一切の手出しができなくなる。
 続いて、胸元と胴体を亀の甲羅模様に締め上げ、女が強調されると同時に、呼吸が制限された。
 仕上げに折り曲げた脚を太腿ごと縄で固定され、足首と首を一本の縄で連結された。 畳の上の私は、緊縛されて、ただそこに置かれただけの存在と化した。

「美しいな」

 鬼灯さんの低い声が鼓膜を震わせる。 鏡を見なくても分かる。今の私は人間としての尊厳を剥奪され、彼の嗜好を満たすためだけに組み上げられた、美しくも無機質な人形だった。その客体化が、かつてない安らぎをもたらしていた。
 自分で何も決定しなくていい。動くことも考えることも許されない。ただ、彼の作品として存在することだけが許されている。    

 しかし時間が経過するにつれ、複合的な負荷が牙を剥き始めた。 関節の悲鳴、筋肉の断裂感、皮膚に食い込む麻縄の摩擦熱。それらが渾然一体となって脳髄に押し寄せる。呼吸が浅くなり、酸欠になった脳が現実感を喪失させていく。

(痛い、苦しい、恥ずかしい……あぁ……)
 過去数ヶ月で培われたすべての感覚が一点に集約し、臨界点を超えた瞬間だった。 脳の奥で何かが弾け、閃光のような白濁した感覚が背骨を駆け抜けた。

「あ、ぁ、あぁッ……!」  
 彼に指一本触れられていないのに、私の身体はビクンと大きく跳ね、痙攣し、絶頂を迎えていた。 性欲によるものではなく、魂が身体という檻から抜け出す際の、断末魔にも似た法悦だった。    
 視界が白く明滅し、自我の輪郭が溶け出す。私は私でなくなり、ただ快楽を受容するだけの器となった。泥のような陶酔。死に限りなく近い、生の爆発。

 どれくらいの時間が経ったのか。不意に連結が解かれ、拘束が緩められたことで現実に引き戻された。  堰き止められていた血液が一気に四肢へ巡る。猛烈な痺れと熱さが全身を駆け巡り、意識が強引に覚醒させられる。 至高の領域から重力のある現実へ、ゆっくりと降下した。喪失感が私を襲った。

 緊縛による極限の解放感は、社会的地位でも、金銭でも、普通の恋愛でも、絶対に得られそうもない。 鬼灯さんだけだ。この厳格で冷酷な縛り手だけが、私をこの世の苦しみから救済してくれる。心の底からそう感じた。

「縄酔いしたか」
 鬼灯さんが虚脱状態の私を抱き起こした。 無骨な手が汗で濡れた私の顔や髪を優しく撫でる。その体温に触れた瞬間、私の中で張り詰めていたダムが決壊した。
「あ……う、ぁあああ……ッ!」
 広い胸に頭を預け、喉の奥から言葉にならない嗚咽を漏らす。父が死んだ時でさえ気丈な長女として振る舞った私が、今は生まれ落ちたばかりの赤子のように泣きじゃくっている。

 鬼灯さんは何も言わず、ただ私の背中を赤子をあやすように一定のリズムで叩き続けた。その手のリズムが私を次第に落ち着かせた。
 

 鬼灯さんの縄は、私がずっと求めていたものだった。 彼の縄が私の心の穴を完全に塞いでくれた。私の心は救われ、鬼灯さんは私にとってかけがえのない人になった。  

 けれど――。
 これほど深く愛し、魂のレベルで結合していると感じても、決して満たされないものがあった。

 その夜から、私たちは一つの部屋でふとんを並べて寝るようになった。私の身体は彼に抱かれることを渇望していた。
 しかし、彼が女としての肉欲を満たしてくれること、文字通り「身体の穴」を埋めてくれることは、決してなかったのだ。
  密着した彼の下腹部には確かな熱があり、まだそうした欲求が枯れているとも、不能になったとも思えないのに。 私の疼きだけが、雨音の中にずっと置き去りにされ続けた。

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