四月。年度末の喧騒が過ぎ去り、新年度を迎えるとオフィスには穏やかな空気が戻ってきた。私も鬼灯さん訪問を再開した。私の今の生活は穏やかに安定したリズムを刻んでいる。
平日は有能な主任として働き、土曜の朝には渓谷の古民家を訪れ、緊縛による安らぎと羞恥の快楽を得て帰宅する。そのお礼にご飯を作ったり、簡単な片づけをしたりする。
日が長くなるにつれて私が帰途につく時間も遅くなり、とうとう、土曜日の午後に着替えを詰めた鞄を持ってここに来て、日曜の夜まで共に過ごすようになった。今では掃除や洗濯もこなす、通い妻状態。違うのは、肉体関係がないことだ。
彼と私は、口頭で契約を結んだ「縛り手」「受け手」というだけの関係だった。しかし、私は自分が彼を愛し始めていることを自覚していた。また彼からの縄や言動の節々に私への愛情を感じてもいた。
彼からの愛情が、私ではない別の誰かに向けられているように思うこともないではなかったが、彼に私以外の女の気配は皆無だった。きっと嫉妬深い私の思い過ごしだろう。
*
新緑が目に眩しいゴールデンウィーク。 大きな鞄を膝にのせて中央線の朝の下り電車に揺られていると、ふいに声をかけられた。
「あれ? 主任じゃないですか」
顔を上げると、登山リュックを背負った黒須君が爽やかな笑顔で立っていた。
「あら?奇遇ね」
「本当ですね。主任も登山ですか? 俺、大学の時の友達と高尾山に行くんです」
彼は私の服装――動きやすいパンツルックに、少し明るい色のカーディガン――を見て、眩しそうに目を細めた。
「なんか、会社にいる時と雰囲気違いますね。力が抜けてるっていうか……そういう姿の主任もすごく綺麗です」
「知人の家に泊まりにいくの。おだてても何も出ないわよ」
「いや、本心ですよ」
私が乗換駅で降りる際、彼はにこやかに手を振ってくれた。
「お互い、良い休日を!」
屈託のない明るい笑顔。 彼は仕事ではまだ頼りないところもある。それでも良い部下であり、男としても可愛げのある好青年だ。
以前の私なら、その純粋な好意にとっくに絆されていたかもしれない。けれど今の私は、彼に向けられた笑顔を受け止めながらも、心中では鬼灯さんの縄に想いを馳せていた。
*
古民家に着くと鬼灯さんは裏山へ行く支度をしていた。
「遅かったな。山菜を取りに行くぞ」
「はい、すぐ着替えます」
私はまるで自分の家のように行動して素早く作務衣に着替え、後を追った。 新緑の森の匂いは濃厚だ。まるで命の匂いが充満しているような気がする。鬼灯さんは無骨な手つきで、ワラビやゼンマイを見つけては私の籠に入れてくれた。
「ここの斜面は足場が悪い」
差し出された大きく温かい手。その手を握り締めながら山道を歩く。 言葉は少ない。けれども、時折振り返って私の歩調を気遣う視線に確かな安らぎを感じる。縛り手と受け手という関係を超えた、確かな繋がりがそこにはあった。
夕食は、採ってきた山菜と茸の天ぷらと鬼灯さんが打ったうどんを、豚肉入りの熱いつけ汁でいただいた。私の色の好みも彼に影響されて変わりつつあった。夕食を終えてお茶を飲んでいると、彼が改まった様子で私を見た。
「今回は連休だ。明日も泊まれるか」
ドキリ、と心臓が跳ねた。これまでは一泊が限度だった。
「……はい。そのつもりで準備してきています」
「ならば、明日から段階を進める」
鬼灯さんの瞳から、穏やかな色が消え、冷徹な修羅の光が宿る。
「苦しくなるぞ。ついて来れるか」
「はい。あなたになら、どこへでも」
翌日からの縄のテーマは「業(ごう)」。純粋な苦痛による儀式だった。
畳の上にうつ伏せに寝かされる。
「う、ぐぅ……ッ!」
足首を縄で捕らえられ、背中側へと強く引き上げられる。 膝が畳から浮き、太ももの筋肉が限界まで引き伸ばされる。踵が後頭部に触れるほど身体を折り曲げられ、視界が逆転し、背骨がミシミシと悲鳴を上げた。
「痛いか」
「は、い……ッ! 痛い、です……!」
「その痛みを直視しろ」
鬼灯さんが容赦なく縄を絞り上げる。 関節が外れるのではないかという恐怖と、脳髄を白く染め上げる激痛。
だが――不思議だった。 痛みが頂点に達した瞬間、バラバラに散らばっていた意識が、急速に一つに収束し始めたのだ。
激務や喪失感で感情が麻痺し、どこか他人事のように生きていた私。「自分が自分である感覚」が希薄になりつつあった自我。それが今、痛覚という一点において強烈に統合されている。
(私は今、ここで痛みを感じている。それは私が「生きて」いるからだ)
緊縛による「覚醒」だった。 脳内で何かが弾ける音がした。強いストレスに対抗するため、脳がβ-エンドルフィン――脳内麻薬を大量に分泌し始めたのだ。
「……あ、あぁ……ッ」
苦痛が、痺れるような快楽へと変質していく。 ランナーズハイにも似た、突き抜けるような高揚感。 痛いのに、気持ちいい。苦しいのに、「生」をまさに痛感して、鬼灯さんの縄に救われている。
縄が解かれると、私は糸の切れた人形のように畳に全身を投げ出した。 堰き止められていた血液が一気に全身を巡る。ジンジンとした熱と共に、泥のような重たいまどろみが襲ってきた。 日常の睡眠では絶対に得られない、強制的な脳のシャットダウン。 私は鬼灯さんに優しく撫でられながら、深い、深い多幸感の海へと沈んでいった。