第2話:羞恥の開花 

 二月のバレンタインデー。新橋のオフィスでは、義理チョコを配り歩く事務的な作業が淡々と行われていた。私も「小鳥遊主任」として、黒須君を含めた部下たちに、デパートで一括購入した高級ブランドの詰め合わせを機械的に配る。

「ありがとうございます! これ、俺だけに特別なやつですか?」 黒須君が冗談めかして笑うのを、「全員同じよ」と冷たくあしらう。彼らに渡したのは、ただの円滑な人間関係のための潤滑油。

 本命――などという言葉で括るにはあまりに重い、執着の塊のようなチョコレートは、週末のバッグの中に隠されていた。  

『ル・ショコラ・アラン・デュカス』のガナッシュ・オリジン。カカオ豆の産地と個性にこだわり抜いたそのチョコレートは、飾り気のない幾何学的な形状をしていて、まるで鉱物の標本のようだ。甘さを極限まで削ぎ落としたそれは、媚びることを知らない今の私の心情そのものだった。

 古民家でそれを差し出した時、鬼灯さんは「俺にこんなものは似合わん」と眉をひそめたが、茶を淹れると黙って一口、その漆黒の欠片を口にした。
「……悪くない。素材の味がする」  
 その短い一言と口元に残るカカオの香り。それだけで私の心はドロリとした甘い充足感で満たされた。

 *

 三月十四日のホワイトデー。週末の渓谷の梅が終わりに近づいていた。縄を打たれる前に、私から鬼灯さんを誘って二人で川沿いを散策した。 早春の風はまだ冷たいが、陽光はどこか柔らかい。

「いい色だ。お前の頬も、少しは血色が良くなったな」  
 鬼灯さんの言葉に胸の奥が温かくなる。
「こちらへ通うようになって、よく眠れるようになったからです」

 仕事の悩みも、父の死の寂しさも、一人になった孤独感も、ここへ来ている間だけは霧の向こう側へ消えていく。深い心の空洞も、鬼灯さんの縄によってギリギリと絞られ消えていく。歩幅を合わせて歩くこの時間が、今の私には何よりの癒しだった。

 けれど、屋敷に戻れば甘いだけの場所ではない。シルクの下着姿で畳の上に立つ私。鬼灯さんの瞳には、いつになく冷徹な「緊縛師」としての光が宿っている。

「今日は全部脱げ」
 短く命じられて心臓が跳ねた。これまでは着衣、あるいは下着姿の上から縛られてきたから、いつかはと覚悟はしていた。脱毛処理も完璧だ。ただ、ホワイトデーの今日だとは思っていなくて、あまりに突然すぎただけ。

「え……でも……」
「脱ぐんだ。一欠片の布も、お前の心を護る盾にはさせん」
「……はい」
 震える指でフックを外し、ブラを畳の上に落とす。ショーツは濡れそぼっている箇所を隠すように丸め、身を屈めてブラの下におく。
 春先のまだ冷たい空気が、産毛の一本一本まで粟立たせるように、無防備な全身を容赦なく撫でた。鬼灯さんの視線が肌の上をねっとりと這うのを感じる。物理的に触れられていないのに、視線だけで犯されているような熱量。羞恥で顔が火照り、思わず身をすくめる。

 私の色白の裸体に、緋色の麻縄が這う。
 ざらりとした麻の感触が、敏感な乳房に直に触れた。胸が十字に割られ、柔らかな肉が悲鳴を上げるほど強く締め上げられる。食い込んだ縄が白い肉に赤い渓谷を刻み、先端が私の秘所へとあてがわれる。

「っ……!?」
 太い縄が、秘裂を割り開くようにして私の身体の中心を縦断していく。背中で結び目が作られ、強く引き上げられると同時に、股間の縄がピンと張り詰めた。

「あっ、あぁっ……!」
 ギチリ、と絹鳴りの音が静寂な部屋に響く。 呼吸をするたびに、わずかに身じろぎするたびに、股間に食い込んだ麻の繊維が剥き出しの粘膜を無遠慮に擦り上げる。鋭い刺激が脊髄を駆け上がった。

「恥ずかしいか」
 鬼灯さんの低い声が頭上から降ってくる。
「はい……っ、こんな、恰好……直に、縄が……」
「そうだろうな。だが、まだだ。あの高級なチョコの礼だ。見合うだけの縄を打ってやる」
 鬼灯さんは冷ややかな、かつ嗜虐的な熱のこもった瞳で私の全身を見下ろした。

 新しい畳の匂いに混じり、煮なめされた独特の縄の匂いが鼻孔をくすぐる。
 畳の上に仰向けにされると天井の梁が視界に揺れた。両脚が持ち上げられる。深く曲げた膝を胸へ押し付けられ、関節がきしむほど小さく折りたたまれる。膝が縄で固定され、私の股間が天井に向かって強制的に、大きく開かれた。
 M字型に開脚されたその真ん中。緋色の縄が深々と食い込み肉を左右に分かつ光景が、鬼灯さんの目の前に晒された。隠しようのない、あまりに無防備で卑猥な姿。

「いや、見ないで……!」
 顔を背けて本気で拒絶する。安らぎが欲しいだけなのに。こんな雌動物のような辱めは求めていないのに。
「逃げるな」
 しかし鬼灯さんは、私の顎を掴んで無理やり自分の方を向かせる。瞳の奥には暗い情欲の炎が見える。彼は私を見ているようで、その奥にある『女』そのものを見定めているようだった。……いや、私ではない遠くを見ている、そんな風にも思える奇妙な目線だった。

「綺麗な赤だ」
 彼が呟いたのは、鮮やかな縄の色か、それとも充血し、涙を流すように濡れた私の秘所のことか。

 鬼灯さんの武骨な指が、股縄の上からそっと、私のいちばん感じるところに触れた。
「ひぅッ!」
 電流のような痺れが腰を跳ねさせる。縄のざらつきと指の熱さの波状攻撃。
 嫌だ。恥ずかしい。見られたくない。理性はそう叫んでいるのに身体は正直だった。見られているという事実が、最も恥ずかしい場所を晒されているという屈辱が、脳髄を焼き切るような快感に変換されていく。

 熱い。股間が火事のように熱い。視界が涙で滲む。五感が飽和し、世界が鬼灯さんと縄の感覚だけで埋め尽くされる。

「……いい顔だ」
 鬼灯さんが満足げに目を細めた。私は晒されることで開発されていた。羞恥心というスパイスが、食い込む縄の痛みと混ざり合い、鬼灯さんの視線を極上の悦びに変える。理性の皮を剥がされ、ドロドロとしたオンナの欲望が引きずり出されていく。

(もっと見て……もっと奥まで……私の全てを……)
 気づいたとき私は、乳首を強張らせ、蜜を溢れさせて縄を濡らしながら、精一杯股を開いていた。誘うような情欲の瞳で、彼を見つめ返していた。

「絹の下着などより、この縄の下着のほうがよほどお前の肌に映える。これが、俺からの返礼だ」  緊縛師らしい、粋で残酷な、愛に満ちたお返しをいただいたホワイトデーだった。

 *

 帰り際、私は名残惜しさを押し殺して告げた。
「三月下旬は年度末で……決算とかの年度末処理に追われるので……新年度が始まる四月まで、お会いできません」  
 仕事ができる女としての責任感がそう言わせた。

 鬼灯さんは、わずかに目元を揺らした。いつもなら「勝手にしろ」と吐き捨ててもおかしくないのに、一瞬だけ、本当に残念そうな、寂しげな顔を見せたのだ。
 「……そうか……待っている」
 その短い返事に、私は胸が締め付けられた。

 離れている間も私の身体には緋色の縄の食い込みが残っていた。その熱が激務の年度末を支えてくれた。

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