2章:満たされる心、切ない身体(紗英)ー第1話:甘美な緊縛

 街がクリスマス一色に染まる十二月。 イルミネーションが輝く新橋の夜景とは裏腹に、私は身体だけでなく心も冷え切ったままだった。

 年末進行の激務。その忙しさに輪をかける忘年会。営業として企画しないわけにはいかない。有能な「小鳥遊主任」を演じる鎧は日に日に重くなるばかりだった。

 宴会後の深夜、一人暮らしのマンションに帰宅する。暖房をつけても部屋はすぐには温まらない。浴槽に湯を張るスイッチを押して、疲れた身体をソファに預けてじっと待つ。部屋着に着替えもしないでスーツ姿のままだ。ネットフリックスでドラマを流しても、目と耳を素通りしていくだけ。

 軽快な音楽と『お風呂が沸きました』の人工音声にハッとする。ウトウトしてしまっていたようだ。湯船に脚を伸ばしてゆっくり浸かる。ふぅ~。生き返る。気持ち良くて溜息が漏れた。

 風呂から上がると部屋も十分温まっていた。冷蔵庫からコントレックスを取り出して水分補給。温まった身体に美味しく染みわたる。美味しい。この気持ちのままベッドに潜り込む。冷たいシーツも気にならないほど身体は温まっていた。
 しかし、私の心は深い穴を抱えて冷えたまま。この穴を埋められるのは高級な羽毛布団でも、エアコンの熱風でもないことを、今の私は知っていた。

「主任、今年のクリスマス・イブって空いてます?」
 数日後の忘年会の席。喧騒を抜け出して店の外で風に当たっていると、黒須君が声をかけてきた。白い息を吐きながら、人懐っこい笑顔で近づいてくる。
「何その質問。デートの誘い?」
「だったらどうします? 俺、ずっと言ってるじゃないですか。主任がタイプだって」
 彼は酔った勢いを借りているようだが、その瞳は真剣に私を射抜いていた。 若く熱を持った雄の目。悪い気はしない。けれども今の私が求めているものとは違っていた。

「ありがとう。でも、お酒の力を借りなきゃダメなのは恰好悪いわよ。精進して出直しなさい」
「えっ……彼氏、いたんですか」
 あからさまに落胆し、耳を垂れる大型犬のような彼に、私は営業用の微笑みを見せた。
「最近嵌まってることがあって、それで忙しいだけ。恋人はいないわよ」
「えっ?本当に!?嘘じゃないですよね?」
「本当よ。だからがんばって」
 気楽に口にした応援の言葉が、恋に落ちた若い男にどう響くのか。そのときの私は知る由もなかった。

 *

 クリスマス・イブの週末。私はイルミネーション輝く都会ではなく、底冷えのする山道を登った日本家屋の前にいた。かじかむ指先で引き戸を開ける。
 鼻腔をくすぐる独特の薫香。古い畳と高級なお香、微かに香る煮なめされた麻縄の匂い。枯れた草のようでありながら、どこか生き物の体臭にも似た安らぎの匂いだ。

 十一月に初めて縛られてから、私はほぼ毎週末ここに通い、鬼灯さんから様々な緊縛を施されていた。

「きたか」
 囲炉裏の切られた茶の間で、鬼灯さんが静かに迎えてくれた。赤々と燃える暖炉の炭火が冷え切った私の頬を撫でる。暖かい。厚着をしていると汗をかきそうなくらい。都会での凍てつく孤独が嘘のようだ。

「遅かったな」
「申し訳ありません、ケーキを買っていたら時間がかかってしまって」
「ケーキだと?……ああ、今日はイブだったな」
「ええ、だからお店がとても混んでいて」
「そんな気を遣うことはない」
「でも謝礼もお支払いしていませんし、多少のことはやらせてください」
「好きにしろ」
「はい、好きにさせていただきます」

 ぶっきらぼうな彼の口調にも慣れてきて、私も軽口を返すようになっていた。慣れたのはそれだけではない。
「寒くはないか?」
「大丈夫です」
 それを合図に私は迷うことなく服を脱ぎ捨てた。気合の入った下着姿で磨き上げられた畳の上に立つ。

 今日の下着は、聖夜を意識したフランスのLISE CHARMEL(リズシャルメル)ブランドの『Ecrin Désir(エクラン・デジール/憧れの宝石箱)』。その名の通り、私の身体を彼への贈りものとしてパッケージングするための逸品だ。
 深いボルドーのようなルージュ(赤)と、夜の闇を溶かしたようなノワール(黒)のコントラスト。ブラジャーはワイヤーのないトライアングルタイプを選んだ。バストの形をありのままに見せるノンパデッドで、薄いチュール生地越しに乳首が透けてしまいそうなほど繊細だ。カップの上辺を彩る黒い刺繍レースが、白い肌との境界線を妖艶に際立たせている。
 ショーツは、腰紐が複数本に分かれた大胆なストリング・デザイン。動くたびに食い込んだ黒いラインが腰のくびれを強調する。
 太ももにはお揃いのガーターベルト。逆三角形を描く幾何学的な装飾が、絶対領域を額縁のように飾り立てていた。

 会社では「鉄の女」と呼ばれる私が、服の下にこんなにも淫らな欲望(デジール)を隠していると知ったら、部下たちはどんな顔をするだろう。

 けれども、鬼灯さんは私の気合の入った下着姿に一言も言及せずに、緋色に染められた麻縄を手に取った。彼の瞳に囲炉裏の火が揺らめいている。
「力を抜け。身体を預けろ」

 今回のテーマは『静』。
 背後から伸びた縄が、私の二の腕に巻き付く。ゾクリ、と背筋に電流が走った。
 縄はただの道具ではない。まるで生き物のように、あるいは熟練した恋人の指先のように、私の肌の上を這い、輪郭をなぞっていく。

 最初はひんやりとしていた麻縄が、私の体温を吸ってすぐに生温かく馴染んでいく。今はもう、私の皮膚の一部だ。二の腕、手首、太もも。縄が通るたびに熱く脈打つ。

 ――ギチリ。鬼灯さんが力を込めると背後で乾いた音が鳴った。麻の繊維が悲鳴を上げ、互いに噛み合う「絹鳴り」の音だ。

「あっ……うぅ……ッ」
 締め上げられた瞬間、私の口から思わず艶っぽい呻き声が漏れた。痛みではない。抱き締められたような、身体の奥深くまで侵入されたような、濃密な充足感。締め付けられるたびに体の芯が熱くなる。縄が食い込む場所から、『お前は俺のモノだ』という強烈な所有印を押されているようだ。
 呼吸をするたびに、胸元の縄が『クウ、クウ』と微かに鳴く。まるで、私の鼓動に合わせて縄が呼応しているかのような錯覚を覚えた。

 鬼灯さんの手は止まらない。前方に伸ばされた両腕に縄を巻き付けるようにして固定する。続いて両脚も同じように縛って自由を完全に奪う。私は手も足も動かせない一本の肉柱と化した。

 鬼灯さんが正面に回り込み、私の顔を覗き込む。その瞳。私を見ているようで見ていない。もっと遠く、過去の幻影を見つめるような切ない瞳。鬼灯さんの指先が私の頬をなぞる。その指は冷たいのに、火傷しそうなほど熱く感じた。

(私はあなたの人形。あなたの作品)

 そう思ったら、視界がぐにゃりと歪んだ。縄の圧迫で血流が制限され、軽いトランス状態に落ちていく。天井の木目が生き物のようにうねり、鬼灯さんの顔だけが水底から見上げるように揺らめいて見えた。

「倒れるなよ。自分の力で立っているんじゃない。この縄が立たせているんだ」
 耳元で囁かれる言葉が理性を溶かしていく。  

 そうだ。私は自分で立たなくていい。社会的な責任も、将来への不安も、孤独な夜の寒さも。すべてをこの縄と鬼灯さんが引き受け、私を支えてくれている。
 思考が停止する。私はただの肉体。呼吸し、脈打ち、縛られるためだけに存在する。縄の匂いと絹鳴りの音。
 鬼灯さんの視線に包まれて、私は深い安息の闇へと沈んでいった。

 *

 年末は誰もいなくなった実家を片付けた。終わるとやることがなくなった。学生時代の友達は恋人や家族と過ごしたり、帰省したり、趣味や推し活に励んだりしている。会社では女性管理職として他の女子仲間から敬遠されている。

 こういうときに限って黒須君からのお誘いも来ない。ああ見えて母親をとても大切にしているらしい。喪中でもある私に声をかけづらいこともあるのだろう。

 熟慮の末、元旦から鬼灯さんの所にお邪魔することにした。あの様子だと正月も一人で過ごすのは間違いない。大晦日は、あの人の好みそうな昆布の煮物や栗きんとんなどを作ってパッケージに詰めて、どんな服装と下着で訪問しようか悩んでいるうちに終わった。

 元旦、早起きして身支度を整えて鬼灯さんの住居へ向かう。ガラガラを引き戸を開けると奥から、元旦から誰がこんなところに、などと呟きながら彼が現れた。私をみて明らかに息を飲んだのがわかった。

「元旦から誰かと思えば……よく似合っているぞ」
「ありがとうございます。昨年は大変お世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします」

 着ていったのは、母が残していった着物。着物を着る機会は滅多にないが。和風の雰囲気の漂うここにぴったりだと閃いたのだ。鬼灯さんも意表を突かれたようだし、頑張って着た甲斐があった。

 お雑煮を作って一緒に食べたり、持っていったおせち料理を肴に日本酒を飲んだり。鬼灯さんに仕事の愚痴を聞いてもらったり。縄の手入れのことを教えてもらったり。

 そんな、静かで温かい元旦を過ごした。着物姿なので縄は打たれなかったが、それでも私の心は満たされていた。

 新年の初めから、頻繁に鬼灯さんの元へ通った。縄を解かれた瞬間に、堰き止められていた血液が一気に指先へ奔流する感覚。ジンジンとした痺れと熱が全身を巡り、私はその場に頽(くず)おれる。

 生を実感するほどの快感。私はもう、この甘美な拘束なしでは生きていけない身体になっていた。

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