第1部:篭絡「秘密の誕生日デート」

 夫の賢治は大学へ、息子の秀哉は学校へ。8時前には自分1人だけになるあの家で、普段なら1人で適当に済ませるはずの残り物のランチ。しかし誕生日の今日は違う。

 今日の優子は、自問自答の末に選んだ淡いグレーのシルクのワンピースに身を包んでいる。デコルテを密やかに強調するその1着は、家族の前では決して見せることのない、1人の「女」としての覚悟の象徴だった。

 冬至を過ぎてわずかに高度を上げ始めた太陽が、立ち並ぶ高層ビルに遮られ、地上に鈍い影を落とす昼下がり。横浜駅で待ち合わせた司にエスコートされ、優子が辿り着いたのは、みなとみらいの海を一望する高層ホテルのメインダイニングだった。

 案内されたのは、窓の外に遮るものなく広がるパノラマビューの特等席だ。白く輝くベイブリッジが青い海の上に優雅な弧を描き、コスモワールドの観覧車が、まるで2人だけの時間を刻む時計のようにゆっくりと回っている。

「優子さん、お誕生日おめでとうございます。今日という日を、あなたとこうして過ごせるのをずっと楽しみにしていました」

 司の声は、レストランの喧騒を心地よく遮断し、優子の鼓膜を直接揺さぶる。次々と運ばれてくる料理は、かつて優子が学食の片隅で「一度食べてみたい」と零した食材を、司が記憶していたものだった。

 前菜は、冬のダイヤモンドと称される黒トリュフを惜しみなく削りかけた、帆立貝のカルパッチョ。立ち上がる芳醇な土の香りが、優子の鼻腔を強烈に支配する。

 続いて提供されたのは、厚切りにされたフォアグラのソテー。バルサミコと蜂蜜のソースを纏ったそれは、舌の上で濃厚な脂がとろけ、主婦としての日常を瞬時に忘れさせるほどの重厚な甘みを放った。

 メインディッシュは、厳選された黒毛和牛のフィレステーキ。ナイフを置くだけで切れるほど柔らかな肉身から、溢れんばかりの肉汁が滴る。赤ワインを煮詰めた深紅のソースは、まるでこれから流れる背徳の時間の予兆のようだった。

 最後を飾るのは、大粒のイチゴを贅沢に20個以上も使用した、真っ赤なドーム状のデザート。飴細工の繊細な輝きと、イチゴのみずみずしい酸味が、優子の理性を甘くとろけさせていく。

 夫も息子も知ろうとしなかった優子の嗜好、心の奥底に沈めていた願望。それを、この20歳の青年だけが宝石を拾い集めるように大切に拾ってくれていた。

 銀のフォークが上質な磁器に触れる微かな金属音さえも、優子の理性を甘く麻痺させる贅沢な調べとなった。昼の光に照らされたベイブリッジは、これから始まるであろう禁断の時間を祝福するように白く、神々しく輝いている。

 シャンパングラスが触れ合い、クリスタルの高い音が静謐な空気に響くたびに、優子の中で「妻」「母」「家政婦」の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていった。

 食事が一段落し、デザートの皿が下げられた頃、司はスッと銀色のトレーに乗った小さな小箱を差し出した。

「誕生日のお祝いです。開けてみてくれますか?」

 優子が丁寧に包みを開けると、そこには1月の誕生石であるガーネットがあしらわれたゴールドのネックレスが収められていた。石の色は濃い赤。

「素敵だわ!……でも、金でしょう? こんなに高価そうなもの……」

「優子さんに似合うものを探していたら、これしかないと思ったんです。最初はピアスも考えたんですが、優子さんは耳に穴を開けていないでしょう?  だから、鎖骨のラインを一番綺麗に見せてくれるネックレスにしました」

 自分でも意識していなかったような身体の特徴を、この青年は正確に把握していた。

「鎖骨のライン?……気にしたことなかったわ、ありがとう」

「いえ……優子さんの繊細な身体のラインが僕は好きなんです。だから、これからは僕が贈ったこのアクセサリーを、ずっと身につけていて欲しいな」

 司は椅子から立ち上がり、優子の背後に回った。

「失礼します」

 窓から差し込む、明るい冬の陽光の下。冷たいネックレスの鎖がうなじに触れ、司の指先が優子の熱を帯びた肌に触れた。
 その瞬間、優子は背筋に電流が走ったような気がした。司は優子の耳元に顔を近づけ、周囲には聞こえない、鼓膜を直接愛撫するような低い声で囁いた。

「ガーネットは、和名では『柘榴石(ざくろいし)』と言います。ギリシャ神話では、冥界の王が愛する女性に、自分の元へ帰ってこさせるために食べさせた種。また『実り』の象徴でもある」

 司の指が優子の喉元でガーネットの粒を転がす。その感触に、優子は自分が司という男の印をつけられたような錯覚に陥った。
 
 トイレに行くと席を外し、鏡でつけ心地を確かめる。そのネックレスは確かに自分の首元を綺麗に見せていた。それだけでなく、鏡の中の自分の瞳にはガーネットの深みのある赤い色のような欲望の炎が灯っていた。

「司くん、ごちそうさま。もう、帰らなくちゃ。私の誕生日にしては、もう十分すぎるほど……」

 戻ってきた優子は、消え入りそうな声で最後の抵抗を試みる。だが司は優子の手を強く握りしめた。

「これから僕の家に来ませんか?  僕は高校生になったときからずっと、この近くで一人暮らしをしているんです。そこなら、誰にも邪魔されない」

「え、でも……」

「実は、優子さんに見せたいものがあるんです。母の肖像画。父は、自分に逆らった母の写真や思い出の品をすべて捨ててしまいました。不実な女の痕跡を家から消し去るためだと言って。でも、一枚だけ僕が隠して残ったものがある。絵画が趣味の母の友人が、母をモデルにして描いた油絵です。その絵の中の母の笑顔が、僕には優子さんに重なって見えるんです。僕の言っていることを、確かめてほしい」

 亡き母を懐かしむ少年の孤独と、自分を求める男としての情熱。その二重の吸引力に優子は抗えなかった。この孤独な青年を救えるのは、同じように孤独を知る自分だけではないか。そんな傲慢なまでの母性が、不倫という罪悪感を甘美な使命感へと塗り替えていく。

「わかったわ……少しだけなら」

 タクシーで数分。到着したのは、海にせり出すように建つ超高層タワーマンションだった。
 
 大きな窓から海が見える広いリビングダイニングルーム。
 白日の光が差し込むその部屋の壁に、その肖像画は飾られていた。

 柔らかな光の中で、1人の女性が穏やかに微笑んでいる。素人が描いたとはっきりわかるが、描いた者の愛情が伝わってくるような温かく艶やかな色彩。

「……これが、お母様? 綺麗な人ね」

 絵の中の女性は、1月の誕生石であるガーネットと同じ、深いワインレッドのドレスを纏っていた。それは今の優子が着ている控えめなグレーのワンピースとは対極にある、情熱と色香を放つ姿だった。1人の女の秘めた欲望を描いているようにも見えた。
「父はこの絵を、母が男を作って逃げた『汚れの証』だと言って捨てようとしました。でも、僕にはわかるんです。母はただ、一人の女として、誰かに狂おしく求められたかっただけなのだと」

 司の声が、すぐ耳元で響いた。その指が、優子のうなじにかかった髪を、優しい手つきでゆっくりと掻き上げる。

「優子さんも母と同じように家庭で苦しんでいる。だから……せめて今、この太陽が昇っている時間だけは妻でも母でも家政婦でもない一人の魅力的な女性でいてほしい……僕だけの優子さんで」

 司が腕の力を強め、優子を正面から向き合わせた。彼の瞳は情熱で潤み、狂おしいほどの渇望が浮かんでいる。

「僕を見てください、優子さん。母は僕を捨てていったけれど、あなたなら、僕が求めているものを与えてくれる。そうでしょう?  僕も、優子さんが求めるものをすべて与えられる。あなたが望むままの、一人の愛される女にしてあげられる」

 司の腕が優子の腰を強く引き寄せ、2人の身体の間に隙間がなくなった。司の若さゆえの情熱と体温の熱さが優子の理性を甘く麻痺させていく。自分をこれほどまでに必要とし、真っ直ぐに見てくれる人間が、他にいるだろうか。

「……私、お母様とは違うわ。あなたを一人になんてしない」

 その言葉は、司への誓いであると同時に自分への最後通牒でもあった。

 振り返った優子の瞳にもう迷いはなかった。絵の中の女性と自分が重なり合う。家も夫も息子も、遠い世界の存在、今この瞬間は、目の前で自分を激しく求めている司という青年だけが全てだった。

 優子が自ら彼の首筋に手を回した瞬間、司の瞳の奥で獲物を仕留めた勝利の光が閃いた。
 しかし、司の胸に顔を埋めて幸福な陶酔の中にある優子に、その光は見えなかった。

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