第1部:篭絡「接近・後編」

 水曜日の午後4時。パートを終えた優子は、エプロンを脱いでもなお、ポケットの中にある一枚の付箋の熱を感じていた。

 記されていたのは、横浜にある隠れ家のようなアンティークカフェ。自由が丘の自宅とは反対方向、夫や知人と出くわす可能性が極めて低い、計算された場所だった。

 優子が店に足を踏み入れると、一番奥の薄暗い席で司が文庫本を広げて待っていた。いつもの大学でのカジュアルな格好とは違い、落ち着いたネイビーのニットを纏った彼は、実年齢よりも大人びて見えた。

「司くん、お待たせ」

 顔を上げた司は、まるで母親を待っていた子供のような笑顔を見せた。優子が向かい合わせに座るとじっと彼女を見つめた。

「来てくれて、本当に嬉しいです、優子さん。本を開いたのに、もし断られたらどうしようって、文字がずっと頭に入ってこなくて」

「司くん、そんなに心配しなくても……」
「だって、僕にとって優子さんは、もうただの『癒やし』なんて言葉じゃ足りないくらい、大切な存在だから」

 司はテーブルの上で、そっと優子の手元に自分の手を近づけた。指先が触れそうで触れない、その絶妙な距離感に、優子の胸は騒ぐ。

「僕の家には、僕を心配してくれる人も、僕の帰りを待ってくれる人もいなかった。家政婦さんが作った冷たい夕飯を一人で食べるのが、当たり前だったんです。でも、優子さんと学食で話すようになってから、世界が少しだけ温かくなった気がして」

 司は潤んだ瞳を優子に向け、声を震わせた。琥珀色のランプが照らす司の顔は、いつにも増して青白く、壊れそうな硝子細工のように見えた。

「司くん……話してくれて、ありがとう。そんなに辛い思いをしてきたなんて、知らなくて」

 優子はテーブルに置かれた司の綺麗な手に、自分からそっと指先を重ねた。司はびくりと震え、すがるように彼女の手を握り返す。

「優子さんだけです。こんな汚い、ぐちゃぐちゃな僕を受け止めてくれたのは」

「汚いなんて、そんなことないわ。むしろ、私の方こそ……」

 優子は、いつも胸の奥に閉じ込めていた澱(おり)を、堰を切ったように話し始めた。司の孤独に触れたことで、彼女の心の防壁もまた、脆く崩れていた。

「私、本当は学歴コンプレックスがすごいの。高校を卒業してすぐに結婚して、まともに社会に出たこともない。夫からはいつも『無知な女』って言われて、家ではまるで名前のない家政婦みたい。学食のパートだって、彼からすれば『お前にはお似合いの底辺の仕事だ』っていう蔑みの対象でしかないの」

 優子の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「息子も進学校に通って、私を避けるようになって……。家の中に、私の居場所なんてどこにもないの。だから、司くんが私に会いに来てくれるのが、本当は怖いくらい嬉しくて」

「優子さん……」

 司は席を立ち、優子の隣へと移動した。そして、彼女の涙を細い指先で丁寧に拭い、耳元で熱を帯びた声を響かせた。

「准教授の奥様でも、誰かの母親でもない。僕は、優子さんという一人の、美しくて傷つきやすい女性に惹かれているんです」

 司は懐から、一包の小さな紙包みを取り出した。

「僕が医学部の伝手で手に入れた、特別なアロマオイルなんです。不眠症の人に使うもので、すごく心が落ち着くんです。少しだけ、試してみませんか?」

 司は優子の手首を優しく取り、脈打つ場所にそのオイルを一滴、垂らした。
 漂うのは、官能的で陶酔を誘う、サンダルウッドの深い香り。司はその手首に唇を寄せ、吸い込むように香りを嗅いだ。

「いい香りだ。優子さん自身のものと混ざって、僕を狂わせそうになる」

 その瞬間、指先が優子の手のひらをなぞり、爪がかすかに食い込んだ。優子は、その微かな痛みに背筋が震えるのを感じた。

「……司くん、ダメよ。ここは、お店……」

「わかっています。だから、来週もまたこの場所で……」

 司の低い声が、優子の思考を麻痺させていく。学歴も、家族も、惨めな日常も。この美しい青年の腕の中に逃げ込めば、すべて忘れられるような錯覚に陥っていた。

 毎週水曜日の午後3時。パートを終えた優子は、東横線に乗って横浜へと向かうのが習慣になっていた。
 夫や息子の夕食の準備までのわずかな時間。山下公園のベンチで海を眺めたり、黄金色に染まった日本大通りの銀杏並木をゆっくりと歩いたり……。

 それは、高卒で家庭に入った優子にとって、初めて経験する「女子」の時間だった。

「優子さん、見てください。あっちの木の方が、より鮮やかですよ」

 司は、常に優子の歩幅に合わせ、車道側を歩いてくれる。
 大学での彼はどこか影があったが、二人きりのときは驚くほど穏やかで、優子のたわいもない話に「へえ、知らなかった」「優子さんは物知りですね」と、真っ直ぐな瞳で相槌を打ってくれる。

 家では夫に「お前は無知だ」と一蹴され、息子からは無視される毎日。
 けれど、司だけは違った。学歴や経歴に関係なく、自分を一人の価値ある人間として尊重してくれている。

 交換したアプリは、今や優子の生活のすべてになっていた。
 朝の「おはよう」から始まり、夜、夫が寝静まった後にこっそり送る「おやすみなさい」まで。司からの返信はいつも丁寧で、そこには必ず、彼女を気遣う優しい言葉が添えられていた。

 11月25日。この日の横浜・日本大通りは、言葉を失うほどに鮮やかな黄金色に染まっていた。
 高く澄んだ空と、歩道を埋め尽くす銀杏の絨毯。海から吹き抜ける風は少し冷たいが、隣を歩く司の体温がどこか心地よく感じられた。

 優子はこの日のために、数日前から献立を練り、朝早くから慣れた手つきでお弁当を仕上げていた。

「司くん、お誕生日おめでとう。お弁当なんてお祝いになるか分からないけれど」

 海の見える公園のベンチ。優子が手渡した二段弁当を、司はまるで神聖な儀式でも行うかのような手つきで受け取った。
 中には、司が「好きだ」と言っていた甘い卵焼き、丁寧に飾り切りした煮物、そして彼が一度食べてみたいと言っていた、優子の実家の味である唐揚げがぎっしりと詰まっていた。

「これ、全部優子さんが一人で?」
 司は蓋を開けたまま、しばらく動かなかった。その瞳がみるみるうちに潤んでいく。

「僕、今まで高級なレストランのディナーや、高価なプレゼントはたくさんもらってきました。でも、こんなふうに、僕のために時間をかけて、僕の好みを考えて作ってくれたものは、一度もなかった」

 司は一口食べるごとに、愛おしそうに目を閉じた。

「温かい。優子さんの味がします。美味しい、本当に美味しいです。なんだか、生きててよかったって、初めて思えた気がする」

 完食した司は、空になった弁当箱を胸に抱きしめるようにして、優子を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、射抜くような強い光が宿っている。

「優子さん、本当にありがとうございます。決めた。この最高のお返しを、絶対にさせてください。優子さんの誕生日は、1月31日ですよね?」

 優子は驚いて目を丸くした。
「どうして、私の誕生日を……?」

「パートの仲間の方との雑談で偶然聞いちゃって」
 司はいたずらっ子のような微笑みを浮かべて続けた。

「1月31日は、僕が優子さんを世界で一番幸せな女性にします。僕が予約する特別な場所で、僕からの『愛』を、全部受け取ってほしい。……だから、誕生日当日、空けておいてくれますか?」

「でも、司くん。そんな、私なんかの誕生日に」

「『私なんか』なんて言わないで。僕にとっては、かけがえのない記念日なんです。僕の、20歳の最初の願いだと思って聞き入れてくれませんか?」

 司は優子の手をそっと握りしめ、まるでプロポーズのような真剣な眼差しで囁いた。

「1月31日。その日まで、毎日カウントダウンさせてください。僕があなたを最高の夜に連れて行くまでの時間を」

 11月にしては暖かい風の中で、司のさらに熱い言葉が優子の心に火を灯した。

「……ええ。楽しみね」

 その日から、二人の関係は「お返し」の日に向かって加速し始めた。
 毎日のSNS。学食での密かな視線とたわいない会話。
 優子の心は少しずつ、自分を否定する夫が支配する自由が丘の自宅から、司が待つみなとみらいの灯りの方へと引き寄せられていった。

 12月に入ると、都会の街はクリスマス一色の華やかさに包まれた。
 優子にとっては、毎年気が重い季節だ。夫・賢治は「学会だ」「忘年会だ」と外食を繰り返し、たまに早く帰宅しても、優子が用意したローストビーフに「火の通りが甘い」と文句をつけるだけ。息子もまた、自分の部屋に閉じこもり、母が焼いたケーキには目もくれない。

 そんな冷ややかな家庭の中で、優子の唯一の熱は、司から届く通知だった。

「優子さん、今日の学食の笑顔、すごく素敵でした。でも、無理して笑っていませんでしたか?」
「今夜は冷え込みます。温かくして休んでくださいね。僕が隣で温めてあげられたらいいのに」

 司の言葉は、孤独に慣れきった優子の心に甘美な痺れを伴って浸透していった。

 12月中旬。学食のパートの合間、返却口の影で司は優子に小さなプレゼントを手渡した。
「これ、1月の誕生日の『前祝い』です」

 それは、高級ブランドのハンドクリームだった。

「優子さんの手、いつも一生懸命働いているから。僕がいない間も、僕だと思って使ってください」

 その指先が優子の荒れた手に触れた瞬間、彼女は自分でも驚くほどの激しい動悸を感じた。家では家政婦として扱われ、誰も気に留めない自分の手を、この美しい青年は愛おしそうに労わってくれる。

 冬休みに入り、学食での密会ができなくなると、二人の関係はさらに熱を帯びていった。
 大掃除や正月の準備に追われる中、司から送られてくる「会いたい」という短いメッセージ。

 ある夜、賢治が書斎で寝落ちしている隙に、優子はベランダに出て司に電話をかけた。
「……優子さん? 声が聞けて嬉しい。ずっと、あなたのことばかり考えていました」
 受話器越しに聞こえる司の吐息は、冷たい夜風の中で耳元を熱く焦がす。

「僕の誕生日に、あのお弁当をくれたときの優子さんの顔。あの日から、僕にとって優子さんは、誰にも渡したくない大切な人になったんです。1月31日は覚悟して来てくださいね」

「ええ……」

 優子は、自分の胸の鼓動が賢治に聞こえてしまうのではないかと怯えながらも、自分を女として強く求める司の熱い言葉に、抗いようのない悦びを感じていた。

 1月31日まで、あと一ヶ月。優子にとってその日は、単なる自分の誕生日ではなく、灰色の日常から脱出する救いの日へと変わっていた。

 新年を迎えた午前0時を過ぎて間もなく、優子のスマートフォンが枕元で短く音を立てた。賢治と息子がリビングで楽しそうにテレビを見ている背後で、優子は隠れるように画面を開く。

『優子さん、明けましておめでとう。20××年は、僕があなたを世界で一番幸せにする年です。あなたの誕生日が待ちきれない』

 司からの「あけおめメッセージ」。その短い言葉が、家の中で強張っていた優子の心を一気に解きほぐした。

 松の内が明けた1月7日。二人は少し足を延ばして冬の澄んだ空気に包まれた鎌倉へと向かった。
 鶴岡八幡宮の参道はまだ初詣客で賑わっていたが、司は人混みから守るように優子の肩を抱き寄せ、自然な動作でエスコートした。

「優子さん、一緒におみくじを引きましょう」

 二人が並んで引いたおみくじ。優子が開くと、そこには鮮やかな『大吉』の文字があった。

「あ、大吉だわ」
「僕もです。見てください、優子さん。二人で大吉なんて、やっぱり僕たちは運命で結ばれているんですよ」

 司は無邪気に笑い、自分のおみくじと優子のそれを並べてスマートフォンで写真を撮った。

「『待ち人:来る。驚くことあり』。1月31日のこと、暗示してるみたいですね」
 司が耳元で悪戯っぽく囁くと、優子は頬を染めて視線を泳がせた。

 楽しい時間は一瞬で過ぎ去る。
 医学部2年生の1月は、進級を左右する過酷な本試験が続く時期だ。
「明日からは死ぬ気で勉強します。優子さんの誕生日に、最高の僕で会いたいから」

 それからの2週間、司は宣言通り試験勉強に没頭した。
 学食にも姿を見せず、連絡も1日に数回、「今から徹夜で解剖学をやります」「優子さんの写真を見てパワーをもらってます」といった短いものだけになった。

 大切な勉強時間を削って毎日欠かさず連絡をくれる司。優子は彼への愛おしさを募らせていった。

 そして優子の誕生日の前日。
 司から一通のメッセージが届いた。

『試験もレポートも、全部完了しました。明日は午前11時に横浜駅で。最高のプレゼントを用意して待っています。早く優子さんに会いたい』

 優子はその画面を愛おしそうに見つめ、司から贈られたハンドクリームを手に馴染ませた。暗く寂しい家庭生活の中で、司との会話が彼女の唯一の癒しとなっていた。

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