佐伯優子(さえきゆうこ)は、155センチの小柄な身体に、48キロという無駄のない肉体を持っていた。地味なパートタイマーの制服に身を包んでいても、エプロンの紐が強調するそのウエストの細さと、それとは対照的なFカップの豊かな胸の膨らみは、通り過ぎる男子学生たちの視線を密かに惹きつけていた。
さらに、膝上の制服スカートからこぼれる脚のラインは、34歳とは思えないほど白く、ほっそりとしていて瑞々しい。化粧は地味で全く目立っていないが、よく見れば鼻筋の通った非常に整った顔立ちをしている。その長く美しい黒髪も、仕事中は常にまとめられ、隠されている。
おとなしく控えめな性格もあいまって、大声で指示しながらテキパキ動き回る他の中年女性パートタイマーたちや、お昼時に食堂を埋めつくす、若く元気な男子学生や可愛い女子学生の影に隠れる存在だ。
彼女がこの日吉キャンパスの学食でパートを始めたのは、約3年前。一人息子の秀哉が難関の麻布中学に合格し、夫の賢治が大学の准教授になって1年が経過した。自分以外の家族がひとつ上のステップに進んだとき、自分をもっと必要とし認めてくれる場所が欲しくなったのだ。
パートは月水金の、午前10時から午後3時まで。今どき珍しく、高校を卒業しすぐに専業主婦となった優子は最初は戸惑ったが、料理には自信があったことからすぐに慣れた。今では仕事というよりも、息が詰まる家庭からの避難場所としてくつろげる場所となっている。
パート仲間から時々遊びに誘われるくらいには仲良くなっていたが、夫からはいい顔をされず、断ることが多いため、最近は誘われることも減り寂しく感じることもあった。
大学の授業の後期が始まり、10月に入った頃からだろうか。毎週月曜日と金曜日の、昼のピークを過ぎた頃。時々現れて、決まって同じ席に座る、ある一人の背の高い学生が優子の意識に留まるようになった。
彼はいつもカツカレーを注文し、賑やかな集団から離れて一人でそれを口にする。端正な顔立ちを崩すことなく、どこか寂しげな影を纏ったその佇まいは、優子の母性本能をくすぐるような危うさがあった。
優子が近くを通るたびに、彼が伏せた睫毛の間から、縋るような視線で、チラチラと彼女のほうを見ている気がして守ってあげたくなるのだった。裕福な家庭に育った、頭が良くハンサムな若者が自分を必要とするとは全く思えなかったが。
ある金曜日の午後。その学生が席を立ち、足早に食堂を出て行った後、優子はテーブルの上にポツンと残された鍵を見つけた。
「あ、大変!」
優子は反射的に鍵を掴むと、食堂の出口へと走った。
「あの、ちょっと待ってください!」
呼びかけると、廊下の先で彼が立ち止まり、ハッとしたようにこちらを振り返った。彼も忘れ物に気づいたのか、困ったような、どこか心細げな表情で戻ってくる。
「鍵、忘れたでしょう?」
優子が差し出すと、彼は驚いたように目を見開き、申し訳なさそうに視線を落とした。
「あっ!……ありがとうございます、助かりました……」
消え入りそうな声と、どこか孤独を感じさせるはにかんだ笑顔。それが、彼――氷室司(ひむろつかさ)との最初の会話だった。
それ以降、最初は鍵の礼から始まり、次第にたわいもない世間話を司と交わすようになっていった。月曜日と金曜日の午後1時過ぎは、優子にとって特別な時間になった。
「今日は少し肌寒いですね」
「ここのカレー、なんだか安心するんです。カツも意外と美味しいんですよ。優子さんが揚げているんですよね?」
「意外とってなによ、こう見えて料理だけは得意なんですからね」
「こう見えて……?」
口を閉ざした司が意味深に優子を見つめる。
「……僕には、すごく素敵に見えていますよ」
「えっ?……」
驚いた顔をした優子の顔が、数秒後、一瞬にして赤く染まった。直球の褒め言葉にどう対応していいか慣れていないのだ。
「冗談ですよ」
「あ、そうよねわたしったら……ごめんなさいもう行かないと」
優子は真っ赤な顔をしたまま足早に厨房に戻った。
からかわれたとは思わなかった。目が真剣だったから。むしろ動揺して上手く返せなかった自分をフォローしてくれたのだと思い、褒めてくれたことを感謝した。
そんな時折微熱のこもる穏やかな会話の中で、優子は彼が慶星の小学校からの内部生で、医学部2年生であることを知った。
司もまた、優子の息子が麻布に通う高校1年生であることや、夫がこの大学で社会学を教えている佐伯准教授であることを知っていった。
優子にとって、司との会話は日常の隙間に差し込む柔らかな光のようだった。夫に見下され、息子に無関心に扱われ続けて傷ついた自尊心が、この影のある青年が時折発する誉め言葉と優しい微笑みによって、少しずつ癒やされ始めていた。
11月に入り、学食の大きな窓から見えるイチョウが色づき始めた頃、二人の距離はさらに一歩、踏み込んだものになった。
その日の司は、いつものカツカレーを半分ほど残したまま、所在なげにスプーンを動かしていた。優子が近くのテーブルを拭き始めると、意を決したように顔を上げ、潤んだ瞳で彼女を見つめた。
「優子さん……少し、相談に乗ってもらえませんか?」
初めて名前で呼ばれ、優子は心臓が跳ねるのを感じた。司は困り果てた子供のような顔をして、声を潜める。
「実は、佐伯先生の講義で、どうしても書きたいレポートのテーマがあるんです。でも、僕の考えは先生の理論とは正反対で……。このまま提出したら、また嫌われて単位を落とされるんじゃないかって、怖くて」
優子は司の成績がほとんどA評価であると聞かされていたし、真面目そうな様子と会話から実際にそう思えた。優子からみる司は慶星大学医学部のきらびやかなエリート学生だ。そんな彼が似合わないほど肩をすくめ、弱々しく笑っている。
「僕、父が厳しくて、成績が悪いと居場所がなくなるんです。先生の奥様である優子さんに、こんなこと言うの、失礼だってわかってるんですけど。でも相談できる相手が、他に思い浮かばなくて」
その孤独な告白は、優子の胸の奥に沈んでいた母性を激しく揺さぶった。優子が知る賢治は、昔から自分の意見に反論する者を受け入れられない器量の狭い男だ。司が怯えるのも無理はない。
「そんなことないわ、司くん。私でよければ、いくらでも聞くわよ」
優子が身を乗り出して答えると、司の顔にパッと明るい光が差した。
「本当ですか? ありがとうございます。……あ、でも、ここだと他のみんなに聞かれちゃう。……もしよければ、パートが終わった後、少しだけ外でお話しできませんか?」
少しだけ、という謙虚な誘い。そして、自分を頼りにしてくれる切実な眼差し。
優子は、それが賢治への復讐のための演技であることなど微塵も疑わず、迷いながらも小さく頷いた。
「……そうね。少しなら大丈夫よ」
司は「嬉しいです」と、子供のように無邪気な、それでいてどこか艶っぽい笑みを浮かべた。
パートを終えた優子は、司に指定された、キャンパスの端にあるベンチへと向かった。夕暮れ時の淡い光が、一人で座り込む司の背中に落ちている。その姿は、どこか迷子になった子供のように心細げに見えた。
「お待たせ、司くん。……大丈夫?」
優子が声をかけると、司は弾かれたように顔を上げ、すぐに力のない微笑を浮かべた。
「お疲れのところすみません、わざわざ。僕、一人で考えていると、どうしようもなくなってしまって」
司は伏せ目がちに語り始めた。レポートの相談という口実は、いつの間にか、彼自身の孤独な生い立ちへの告白へと変わっていった。
「実は、僕の家は……あまり普通の家庭じゃないんです。僕、一人っ子なんですけど、両親は不妊治療の末に僕を授かったそうで。でも、その過程で二人の仲はボロボロになって……。不妊の原因は父の方にあったのに、母は父や義理の父母からずっと責められ続けていたそうです」
司の声は、微かに震えているように聞こえた。
「母は僕を産んで2年後、『これで義理は果たした』とばかりに、外に作った恋人のところへ行ってしまったそうです。それっきり離婚して、音信不通です。父は、僕を医者にするためにシッターや家政婦を雇って育ててはくれました。でも、僕を見ていたんじゃなくて、僕という『跡継ぎ』を見ていただけなんだと思います」
優子は、胸が締め付けられるような思いで聞いていた。これほど美しく、恵まれているように見える青年が、これほどまで空虚な孤独を抱えていたなんて。
「だから、僕は産婦人科医を目指しているんです。不妊治療の研究をして、母のように追い詰められる女性をなくしたい。佐伯先生の『家族論』は正論ですが、僕のような歪んだ家庭に生まれた人間を否定しているような気がして」
「そんなことないわ!」
優子は思わず、司の細い肩に手を置いた。司はびくりと肩を震わせると、そのまま優子の手の上に、自分の冷たい手を重ねた。
「優子さん。あなたのような温かい人が、僕の本当のお母さんだったらよかったのに。そうすれば、僕はもっと、真っ直ぐに笑えるのかもしれない」
縋るような司の言葉。重なる手の熱。優子の心の中で、母性本能と、名前のつかない危うい感情が激しく混ざり合う。
「司くん……」
司は重ねた手に力を込め、優子の目をじっと見つめた。その瞳には、深い孤独と、獲物を捉えるような鋭い光が、絶妙なバランスで同居していた。
それから司は月曜日と金曜日の1時半ちょうどに、必ず姿を現すようになった。
その日の昼下がり、学食の喧騒が一段落した頃、司はいつものようにカツカレーを注文して席についた。優子は周囲の目を盗むようにして、小走りで彼の元へ向かう。
「最近お疲れ気味のようだからサービスよ。野菜も摂らなきゃ!」
優子がこっそり置いたのは、ほうれん草の胡麻和えの小鉢だった。司は驚いたように顔を上げ、それからいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「いいんですか? 特別扱いされると、僕、勘違いしちゃいますよ」
「もう、変なこと言わないで。ちゃんと食べて、栄養つけなきゃダメよ。お医者さんの卵なんだから」
優子が照れたように言い返すと、司は「はい、お母さん」と冗談めかして答え、幸せそうに小鉢に箸を伸ばした。そのやり取りは、傍目には仲の良い親戚のようにも見えたが、二人の周りには甘い空気が漂っていた。
食後、トレーを片付けに来た司は、返却口の影で優子にだけ聞こえるような低い声で囁いた。
「さっきの小鉢、すごく美味しかったです。なんだか、ずっと前から知っている誰かに作ってもらったような、不思議な安心感がして」
司の瞳が、ふっと翳りを見せる。
「最近、夜、一人で部屋にいると、あのベンチで聞いた優子さんの声を思い出すんです。僕にとって、優子さんはもう『先生の奥様』じゃない。僕の空っぽな心を埋めてくれる、唯一の『癒やし』なんです」
司は、返却口のカウンター越しに、指先が触れるか触れないかの距離まで身を乗り出した。
「学食だと、どうしても『佐伯准教授の妻』と『学生』の顔をしなきゃいけない。だから、もっと静かなところで、あなたに甘えさせてもらってもいいですか? 先生にも、大学の知人たちにも、誰にも見つからない場所で」
司がポケットから取り出したのは、一枚の付箋だった。そこにはカフェの名前と時間が記されていた。
「来週の水曜日の午後、ここで待っています。来てもらえないと、僕、また一人で動けなくなっちゃいそうです」
縋るようなその瞳は、拒絶を許さないほどに弱々しかった。優子は付箋をエプロンの奥深くに隠すように握りしめ、吸い込まれるように頷いてしまった。
「わかったわ。……1時間くらいなら、大丈夫」
「ありがとうございます、優子さん!」
司は満足げに目を細めると、優子の手の甲を一瞬だけ撫でて、足早に食堂を去っていった。
残された優子の手の甲には、彼が残した体温と非日常の予感が、熱く刻み込まれていた。