8月の終わり。
夜景を一望するラウンジのVIPルームは、重低音のビートと高価なシャンパンの泡に満たされていた。
氷室司(ひむろつかさ)は、手元のスマートフォンを睨みつけたまま、怒りのこもった瞳で画面を見つめている。画面には慶星(けいせい)大学の教務システムに表示された前期の自分の成績。そこには、1つだけD(不可)の文字が刻まれている。
「チッ」
「お、医学部のプリンス様が随分と不機嫌じゃん。どうしたよ、司?」
慶星の幼稚舎からの同級生で悪友の健太が、グラスを片手にニヤニヤしながら覗き込んできた。司は苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てる。
「佐伯とかいう40代半ばの准教授に、社会学の単位を落とされた。家族論に徹底的に反対したレポートを提出したのが原因だろうな。まあ、中身はAIに書かせたものだが」
「へえ、エリートのお前がね。お前の親父さん、大学経営の重職なんだろう? 忖度っていう言葉を知らないのか、その准教授。どんな馬鹿だよ」
健太に促され、司は大学の教職員一覧から佐伯賢治(さえきけんじ)のプロフィール写真を表示した。
「こいつだよ。外面だけはいい」
「ああ、この佐伯か」
健太がスマホの画面を覗き込み、鼻で笑った。
「こいつ、大学の公式プロフにまで『愛妻家』って書いてるし、授業でも隙あらば『妻を愛している』とか惚気てるらしいぜ。意識高い系の女子学生の間じゃ『理想の旦那様』なんて呼ばれてるけど、鼻につくよな」
その画面を横から覗き込んでいた、同じく慶星の幼稚舎からの同級生で司のセフレの果歩が身を乗り出して声を上げた。
「え……嘘! このオヤジ、私がバイトしてるM性感の常連にマジ似てるんだけど」
その場の空気が一瞬で変わった。
司の双眸(そうぼう)が、冷徹な捕食者のそれへと細められた。獲物の急所を見定めた瞬間の、凍てつくような歓喜が宿っている。
「果歩、それ本当か?」
「うん、間違いない。私が『女王さま』として散々虐めてるドMの客。いつも首輪をつけられて這いつくばって、情けない声を出してる。しかも最近、『こんな仕事辞めて俺の愛人になれ』とかしつこく誘ってきて、マジでウザいんだよね」
司の口元に、酷薄な笑みが浮かんだ。自分に不可をつけた男の、あまりに卑俗で滑稽な裏の顔。プライドを傷つけた男への、最高に知的な復讐劇のプロットが脳内で組み上がっていく。
「果歩、そいつが次に来たとき、女王さまに平伏している姿を隠しカメラで撮るんだ。報酬は望み通りに出す……あと、ボイスレコーダーで音声録音も頼む。なるべくしゃべらせて、使える情報があったら教えてくれ」
1週間後。司はラブホテルの一室で、得意そうな顔をした果歩からデータを渡された。大学内では高潔な理想論を説き、高圧的な態度で教鞭を執る佐伯賢治が、果歩の足元で無様に身をよじり、悦びに顔を歪ませて平伏している写真だった。
しかも、それだけではない。
「奥さんのこと、ぼろくそに言ってたわよ。詳しくはそれを聞いてみて……それより、早くしよ♡」
「ああ、褒美にたっぷり可愛がってやるよ」
司はいつも通りの手順で果歩を抱いた。初めて同士で高1の初めに肉体関係をもった。ツインテールが似合うスレンダー美少女の果歩は性欲処理の相手としては悪くない容姿だが、正直マンネリ感を感じていた。今回も仕事を頼んだ関係での久しぶりのセックスだった。
帰宅して録音を聞いた司が他にだれもいないマンションの一室で一人ほくそ笑んだ。
「こいつは使えるな」
佐伯賢治は果歩に向かって10歳年下の妻・優子の悪口を吐きまくっていた。一言で言うと『頭が悪く、出産以降、女としての価値が下がった家政婦』。それが愛妻家であるはずの賢治の妻の評価だった。
当然セックスレス。妻の悪口を言えば果歩の気を引けるとでも思っているのだろう。あまりにも愚かであり、不愉快だった。
表向きは社会学の講義の中で家族関係の「正論」を吐く教育者、裏では妻の悪口を吐き、M性感で若い女に溺れる偽善者。司はこの欺瞞に満ちた男のプライドを、根底から叩き潰すことを決意した。
その憎しみは単位を落とされただけにしては激しいものだった。司が2歳の時、母親が自分を置いて他の男の所へ行ってしまったことと関係していた。しかし司自身は、そのことを自覚していなかった。
母親は司を捨てたというよりも、父親から逃げた、というほうが正しい。
司をなかなか産めなかったことの主因は父親のほうにあった。それにもかかわらず、DVモラハラ気質の父親やその親族に不妊治療で自分だけが責められ、司を産むと役目は果たしたとばかりに大事にしてくれる男の元へ駆け込んだ。
そんな母は裁判のあげく父と離婚、その男と再婚し、愛し合う男の子どもをあっさり産んで、今は幸せに暮らしているらしい。司は風の便りに耳にしていた。
「健太、果歩、お前らにも協力してもらうぞ。奥さんを寝取り、俺の子どもを孕ませて別れさせ、この偽善者のプライドを跡形もなくへし折ってやる」
これから始まる略奪ゲームの開始を告げるように、窓の外に広がる大都会の夜空を、打ち上げ花火が煌びやかに彩っていた。
窓の外の夜景を見つめながら、司は思う。
――自分を捨てた母親も、今頃どこかでこんな光を眺めているのだろうか
首を振って、感傷に流されそうな気持ちを切り替える。
――優子の寝取りゲームをどのようにプレイすれば、退屈な毎日が最も面白くなるのか
容姿にも頭脳にも金銭的にも恵まれているが、父に定められた道を選択の余地なく歩まされる青年の、母という存在への憧憬は、再び心の奥底にしまい込まれた。