第23話:鏡の中の異人

 「カーット! ブラボー! 素晴らしい、最高の画だ!!」

 AV監督の興奮した声と共に、スタジオ内が割れんばかりの拍手喝采に包まれました。  
 私は長いテーブルの中央で、白濁した液体にまみれて横たわっていました。  

 今回のAVのタイトルは『聖娼婦の晩餐(ラスト・サッパー)』。  
 レオナルド・ダ・ヴィンチの名画を模したセットで、私が「メインディッシュの聖女」となり、使徒に見立てられた12人の屈強な外国人男優たちに「食い散らかされる」というコンセプトの大作です。

「M、君は本当に傾国の淫婦だ……いや、実は本当に聖女なのかな?」

 身体についた精液がもったいないので指で掬い取り舐めていると、共演者の男優が、それは俺からのプレゼントとでもいうようにウィンクしました。  
 私は全身を覆う熱い粘液の感触にうっとりとしながら、艶然と微笑み返しました。

「最高の晩餐でしたわ……ごちそうさまでした」

 私のこの一言で、スタジオはさらに沸き立ちました。  

 マカオに来て1年。  
 私の娼婦ネーム「M-009」は、今や裏社会で知らぬ者はいないほどのブランドとなっていました。
 予約は向こう2年先まで埋まっており、その権利自体がブラックマーケットで高値で取引されています。  
 各国の政財界の大物、石油王、ハリウッドスター……。
 彼らは口を揃えてこう言います。
「マカオに来てMを抱けなければ、真の成功者とは言えない」と。  
 一夜の価格は、日本の高級マンションが一括で買えるほど。  
 それでも男たちは「安い」と言って、私の足元に札束を積み上げるのです。

 撮影を終え、私は送迎車で滞在先のホテルへ戻りました。  
 マカオのランドマークであるグランド・リスボアの最上階スイート。
 それが現在の私の「自宅」です。

 バスルームへ直行し、シャワーを浴びます。  
 男たちの匂いと精液を洗い流し、バスタオル一枚を羽織って洗面台の大きな鏡の前に立ちました。  湯気で曇った鏡を掌で拭うと、そこには一人の見知らぬ女が立っていました。

 私は鏡に映る自分の裸体を、品定めするように眺めます。  
 1年近くにわたるセックス中心の生活で、私の身体はすっかり変わっていました。

 首には、決して外れることのない黒い革の首輪。  
 乳房の先端には、深紅のルビーがついたピアスが揺れ、常に感度を晒しています。  
 左手の薬指には、錆びついたような黒い鉄の指輪。  
 完全に剃毛され、無防備に晒された股間は、幾多の快楽を貪って熟した果実のように色づいています。
 そして太腿の内側には、私が鬼灯様の最高傑作であることを示す『椿と鬼』のタトゥーが、以前よりも鮮やかに肌に馴染んでいました。

 それだけではありません。
 胸とお尻がひと回り大きくなっています。
 肌荒れが治まり、高級な磁器のように白く、吸い付くような滑らかさを帯びています。
 黒髪もさらさらと長く伸び、妖艶な光沢を放っています。

 変化は外見だけではありません。  
 匂い、味、音、触れた感触……五感すべてが鋭敏になっています。  
 特に男性が発情したときの麝香のような匂いや、欲望に嗄れた声、荒々しい触れ方に敏感になり、それを感じるだけでパブロフの犬のように子宮が疼き、無意識に蜜を滴らせるようになりました。  
 今の私は、全身が性感帯になっています。  

 鏡の中の女からは、かつての清楚さとは違う、退廃的な色気が滲み出ていました。

 セックスについての価値観も劇的に変わりました。  
 かつては夫婦間の義務程度に思っていた行為が、今ではタブーでなくなり、心理的なハードルなど消え失せました。  
 奉仕とセックスと熱い餌《ザーメン》が大好きになりました。
 それも普通ではない、人格否定されるほどの激しく、苦しいセックスが。

 濡れづらく、感じづらく、イケなかった身体が、常に発情していて行為に入るとすぐにぐっしょり濡れ、酷く感じて凄い嬌声をあげ、何度も深い絶頂に達する身体になりました。  

 性癖も視姦耐性、輪姦耐性ができ、被虐性癖を自覚しました。  
 男達に犯され、モノのように扱われることを当然のこととして受け入れる心に変わっていました。

 男性に対する嗜好も変わりました。  
 距離感が縮まり、触れられるのにも触れるのにも抵抗がなくなりました。  
 男を第一に「セックス相手」として評価するようになりました。
 顔の美醜ではなく、むせ返るような男臭さで好むようになり、ルックスや言葉や財産ではなく、セックスの質で評価するようになりました。  
 ペニスの形状、精力の強さ、精液の量。それだけが男の価値基準です。

 かつての私は、男にだらしがない女を軽蔑していました。  
 しかし今は違います。  
 表向きは良妻賢母を演じているが、実際には夫や義実家から「家政婦」「跡継ぎを作るための産む人形」「育児や介護の奴隷」扱いされている女――かつての私のような女たちを、心底から軽蔑するようになっていました。

「ふふっ」
 私は鏡の中の自分に向かって、勝ち誇ったように微笑みました。  

 自分はそんな、かつての錦織深樹のようなくだらない存在ではない。
 私は鬼灯様に調教された、殿方が私で発情してくださった証を好物の餌とする「極上の牝豚」。  
 誰よりも自由で、誰よりも世界中の殿方から愛されている、鬼灯様の誇れる「Ultimate Premium」。

 ブーッ、ブーッ……。

 その時、洗面台に置いていたスマートフォンが震えました。  
 画面に表示された名前は『Goshujin-sama』。  

 心臓が跳ね上がりました。  
 鬼灯様だ!  
 きっと今日の撮影の成功を聞きつけて、褒めてくださるに違いない。
 あるいは、今月末の定期接種の日程連絡かもしれない。  
 私は濡れた手も拭わずに、慌てて通話ボタンを押しました。

「はいっ! 御主人様! 貴方様の忠実な牝豚・M(エム)でございます!」

 尻尾を振る犬のような期待溢れる声を出してしまいました。
 はしたない。落ち着かなければ。

『……ああ、俺だ』

 スピーカーから聞こえる低い声。
 それだけで子宮が疼き濡れてきます。

「ご連絡ありがとうございます。 今日の撮影、無事に終わりました。監督も大絶賛してくださって……」
『そのようだな。報告は受けている』

 鬼灯様の声は、いつも通り冷徹で、事務的でした。

『M、お前に命令だ』
「はい、何なりと! どんなプレイでも、どんな客でもお受けします!」
『荷物をまとめて日本へ帰国しろ』

 ……え?  
 私は鏡の前で硬直しました。  
 言葉の意味が、うまく脳に入ってきません。

「き、帰国……? どういうことですか? まさか、日本からの出張サービスのご依頼ですか?」
『違う。そこでの仕事は終わりだと言っている』

 鬼灯様は淡々と、死刑宣告のように告げました。

『お前の研修出張は終了だ。日本へ帰り、「錦織深樹」としての生活に戻るんだ』

「――――ッ!?」

 スマホを取り落としそうになりました。  
 錦織深樹に戻る?  
 あの退屈で、無味乾燥で、夫や義実家から無料の家政婦のように扱われる、死んだような日々に?

「い、嫌です……! 嫌です御主人様!」

 私は半狂乱で叫びました。

「ここが私の居場所なんです!  もうあんな田舎都市での退屈で寂しい生活なんて耐えられません!  お願いです、捨てないでください! もっと稼ぎますから! 何でもしますから!」

 鏡の中の自信に満ちた女の顔が、恐怖で無様に歪んでいきます。

『勘違いするな。捨てるわけではない』
「え……?」
『これは次の任務だ。日本でお前にやってもらわなければならないことがある。そのために、お前には「貞淑な妻」の仮面を被ってもらう必要があるんだ』

 任務。  
 その言葉に、私はわずかに冷静さを取り戻しました。  
 鬼灯様は私を捨てるわけではない。
 まだ私を必要としてくれている。

『明日のフライトだ。空港にはウェイロンに送らせる。霧島美令のパスポートを忘れるなよ』

 プツリ。  
 通話が切れました。  

 静寂が戻ったバスルームで、私は呆然と鏡を見つめました。  
 そこに映っているのは、世界一幸せな娼婦ではありませんでした。  
 明日から、あの息詰まるような場所で平凡な妻の皮を被らなければならない、哀れな女の姿でした。

「嘘よ……嘘……」

 私は崩れ落ちるように床に座り込みました。  
 でも、鬼灯様の命令は絶対です。  
 私は震える手で自身の身体を抱きしめました。  

 この豊満になった胸も、開発されきった性器も、すべて隠して表の世界へ戻らなければならない。

 それは私にとって、楽園からの追放に等しいものでした。

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