第24話:凍てつく俗世

 マカオ国際空港の出発ロビー。  
 私はウェイロンに見送られ、一人で搭乗ゲートへと向かいました。  

 首に巻かれた黒革の首輪は、そのまま着けています。
 これは鬼灯様が私に与えた所有の証。いかなる理由があろうと、ご主人様の許可なく外すことは許されません。  
 幸い、この首輪はハイブランドのチョーカーのように洗練されたデザインなので、ファッションと言い張れば怪しまれることはないでしょう。  
 左手の薬指の鉄の指輪だけは、右手の薬指に付け替えられました。
 結婚指輪はマカオ旅行に出るとき、家に置いてきたからです。  
 パスポートの名前は「霧島美令」。  
 しかし、私がこれから戻らなければならないのは「錦織深樹」です。

「さようなら、M。……いや、若奥様」

 ウェイロンの皮肉な敬礼を背に、私は機上の人となりました。

 数時間後。  
 降り立ったのは、鉛色の雲が垂れ込める日本の東北地方でした。  
 マカオのむせ返るような熱気と湿度はどこにもありません。
 あるのは肌を刺すような寒さと、全てを白く塗り潰す雪景色だけ。  

 世界から色彩が奪われたようなその光景に軽い眩暈を覚えました。  
 まるで、色のない夢の中へ迷い込んだような錯覚。

(寒い……。ここには「熱」がないわ)

 空港には、夫が迎えに来ていました。
 黒塗りの高級車。後部座席のドアが開き、懐かしい顔が覗きます。

「お帰り、深樹。……長旅、疲れただろう」

 夫は軽く微笑み、私の手を取りました。  
 その時、小さな違和感を感じました。  
 私の知っている夫は、もっと猫背で、目が泳いでいて、常に何かにイラついているような男でした。

 けれど、目の前の彼は背筋が伸び、瞳には理知的な光が宿り、自信に満ちたオーラを纏っています。

(……雰囲気が変わった? 1年の間に彼も成長したのかしら)

 車内には、3歳になった娘の陽葵(ひまり)も乗っていました。

「ママー! お帰りなさーい!」
「陽葵……!」

 無邪気に抱きついてくる娘を抱きしめながら、私は安堵しました。  
 よかった。忘れられていない。  
 そして何より――バレていない。

 鬼灯様からは、「お前は『短期の語学留学』で一ヶ月ほど家を空けていたことになっている。それに話を合わせろ」とだけ命じられていました。  

 一ヶ月? 
 私は一年も不在だったのに?  
 そんな疑問はありましたが、絶対者である鬼灯様のシナリオに間違いがあるはずがありません。
 私は言いつけ通り、話を合わせることにしました。

「这一个月我也很想你们(この一ヶ月、私もあなたたちが恋しかったわ)」

 私は覚えたての簡単な中国語を披露しました。  
 すると、夫も陽葵も目を丸くして驚いてくれました。  
 本当にそれで何の問題もなく、私は拍子抜けするほどスムーズに元の生活に戻ってしまったのです。

「家が変わったんだ。驚かないでくれよ」

 車が到着したのは、以前の家ではなく、さらに広大な敷地に建てられた新しい邸宅でした。  
 純和風の母屋と、広大な庭。  

 夫はこの1年で錦織グループの実権を完全に掌握し、事業を拡大させたのだといいます。
 義父母も隠居し、名実ともに彼が当主となっていました。

「すごい……。貴方、本当に頑張ったのね」
「ああ。全ては、錦織家のため、君と陽葵のためだよ」

 夫は私の肩を抱きました。  
 かつてのような冷ややかさはなく、理想的な夫そのものです。  
 それなのに、私の心は冷えていました。  
 夫の温もりを感じても、あの子宮が疼くような焦燥感や、脳が溶けるような快楽の予感が一切しないのです。  
 ただの、人肌の温度。
 それだけ。

 その夜。  
 久しぶりの家族団欒を終え、私たちは寝室に入りました。  
 私は緊張と期待で身を硬くしました。  
 1年ぶりの夫婦の夜。  
 これだけ優しくなった夫なら、もしかしたら夜の方も……。

「深樹」

 ベッドサイドで、夫が真剣な眼差しで私を見つめました。

「これからは、この家をもっと大きくしていく。……だから、そろそろ跡取りが欲しいんだ」
「えっ……」
「男の子だ。錦織の血を継ぐ、長男を作ろう」

 心臓がドクン、と跳ねました。  
 子作り。
 中出し。  
 私の脳裏に、マカオでの狂乱の夜々がフラッシュバックします。  
 不特定多数の男たちに種付けされ、精液まみれになったあの快感。

「……はい。分かりました」

 私は頬を紅潮させ、サイドテーブルにあったピルケースをゴミ箱に捨ててみせました。

「もう、飲みません。早く貴方の子供が欲しいわ」

 それは演技ではなく、本心からの渇望でした。  
 私はM-009。
 精液を主食とする牝豚。  
 さあ、早くして。私の中に熱い餌《ザーメン》を注ぎ込んで。
 乱暴に、獣のように、私を犯して!  

 乳首のピアスや太腿のタトゥーが見つかっても構わない。
 言い訳は考えてあります。
「留学中にSNSの人気インフルエンサーの女の子のを見て、私も冒険してみたくなっちゃったの」と言えば、この優しい夫なら苦笑いして許してくれるはず。

 情欲に濡れた瞳で夫を見上げ、ネグリジェの紐を解こうとしました。
 しかし。

「ありがとう、深樹。でも、今夜はやめておこう」
 夫は私の手を優しく制しました。

「え?」
「帰ってきたばかりで疲れているだろう。環境も変わったし、まずはゆっくり体を休めてほしいんだ。焦ることはない。これからはずっと一緒なんだから」

 彼は私の額に淡白にキスすると、さっさと背を向けて寝息を立て始めました。

「…………」

 私は暗闇の中で、取り残されました。  
 身体中が熱いのに。  
 股間はすでに濡れているのに。  
 乳首のピアスが擦れて疼き、太腿のタトゥーが熱を持っているのに。

(嘘でしょ……? 抱かないの……?)

 隣で眠る夫は、穏やかな良き夫です。  
 暴力を振るうわけでも、無視するわけでもない。
 ただ私を気遣っているだけ。  

 でも、それが、今の私には拷問でした。

 それからの日々は、まさに「生殺し」でした。  
 夫は毎晩早く帰宅し、家族と食事をし、優しく私に接します。  
 周囲からは「理想の若奥様」「幸せなご家庭」と羨望の眼差しを向けられます。  
 朝起きて、娘の世話をし、家事を指示し、夫を見送り、優雅にお茶を飲む。  
 平和で、穏やかで、満ち足りた生活。

 ――退屈。  ――退屈。  ――退屈ッ!!

 ――欲しい  ――欲しい!  ――欲しい!!  ――欲しい!!!

 発狂しそうでした。  
 マカオでは毎日のように激しいセックスに明け暮れていたのに、突然ゼロになったのです。  
 さらにピルをやめたせいで、私の身体は毎日、一日24時間ずっと発情状態にありました。  

 夫は子作りを宣言したくせに、一向に私を抱こうとしませんでした。  

「今日は仕事が忙しかったから」
「君の体調が良さそうなら今度」  
 のらりくらりと躱され続け、私の身体は我慢の限界に達していました。

(欲しい……。鬼灯様の、熱い餌《ザーメン》が……!)

 帰国から一ヶ月が経ったある日。  
 私はリビングのソファで、虚ろな目で庭の雪景色を眺めていました。  
 イライラが頂点に達し、爪を噛む癖が出そうになるのを必死に抑えていた時です。

 ブーッ。

 ポケットの中のスマートフォンが震えました。  
 夫に見つからないように隠し持っていた、鬼灯様と繋がるための専用端末です。  

 弾かれたように画面を見ました。  
 そこには短いメッセージが表示されていました。

『倉庫へ行け』

 その瞬間、私の全身に電流が走りました。  
 倉庫。  
 夫が「錦織家の家系図や骨とう品を大切に保管しているだけの場所だから」と言って、私や使用人を決して立ち入らせなかった場所。

 私は震える足で立ち上がりました。  
 恐怖ではありません。歓喜です。  
 ようやく、この偽りの毎日から、正しい毎日へと戻れる予感がしたのです。

 私は家族の目を盗み、雪の積もる庭を抜けて、敷地の隅にある倉庫へと向かいました。  

 鬼灯様から教えられた8桁の暗証番号を入力すると、カチリ、と電子ロックが解除され、床の一部が音もなくスライドして、隠し階段が現れました。

 階段を降りていきます。  
 地下へ。  
 深くなるにつれ、空気が変わります。

 突き当たりの防音扉を開けた瞬間。  
 私は息を呑みました。
 そこにあったのは、マカオの調教部屋と瓜二つの空間でした。  

 壁一面の鏡。  
 部屋の中央に置かれた拘束具付きの大きなベッド。  
 そこには三人の男が待っていました。

 一人は、見知らぬ男。肉付きの良い、いかにも精力の強そうな中年の客。  
 もう一人は、油と汗の染み付いた作業服を着た、無骨な男。  
 そして最後の一人は、黒いスーツに身を包み、冷徹な笑みを浮かべた私の御主人様。

「待っていたぞ、M」

 鬼灯様の声を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れ出しました。  
 ああ、やっぱり。  
 ここが私の現実。ここが私の家。

「御主人様ぁ……ッ!!」

 着ていた良家の奥様風の服を脱ぎ捨て、鬼灯様の足元へ駆け寄りました。  
 偽りの平穏な生活の裏で、肉欲と被虐に満ちた、刺激的なM-009としての娼婦生活が、ついに再開されるのです。

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