7月ー陽翔

 期末テストの季節がやってきた。 この時期になると、華凜さんのクラスの放課後は、ある奇妙な「儀式」の場と化す。

 通称、『一条ゼミ』。
 発端は1年の頃、ある成績不振の女子生徒に華凜さんが勉強を教えたところ、その生徒が次のテストで学年10位以内に急浮上したことだった。

「一条華凜様のご指導には魔法がある」
 そんな噂は瞬く間に広がり、今ではテスト前になると、クラスの枠を超えて教えを乞う生徒たちが彼女の元へ殺到する定例イベントになっていた。

 放課後の教室。
 西日が差し込む中、黒板の前には参考書を手にした華凜さんが立ち、その周りを二重三重の人垣が囲んでいる。

「ここの微分は、公式を丸暗記するのではなく、グラフの概形をイメージしてごらんなさい。そうすれば符号のミスはなくなりますわ」

 凛とした声が響く。的確で、無駄がなく、美しい解説。

 彼女は嫌な顔ひとつせず、淡々と、平等に知識を授けていく。まさに「聖教師のような慈愛」……に見えるが、俺には彼女が「無知な民衆にパンを分け与える女王様」にも見えた。

 俺は、その人垣のいちばん外側で立ち尽くしていた。俺も教えてほしい。切実に。なにせ俺は「華凜さんと同じ大学(最難関の国立大)」を目指すと決めたのだ。今の俺の偏差値(50台前半)では、逆立ちしても届かない。
 だが、あの輪の中に入っていく勇気がない。ため息をつくと自分の席で一人、単語帳を開いた。

「参加しないのか?」
 不意に背後から声をかけられた。神楽だった。彼は喧騒をよそに、窓際で分厚い洋書を読んでいる。

「あいつ、人に教えるのは好きだからな。あれも一種の承認欲求だ」
「あれが承認欲求?」
「『私が導いてあげている』という感覚が、彼女のプライドを満たすんだよ」

 神楽は皮肉っぽく笑って、また本に目を落とした。 幼馴染だからこそ知る、彼女の内面。俺はムッとして言い返した。
「人聞き悪いこと言うなよ。一条さんは、みんなのためにやってるんだろ」
「……ピュアだね、田中は」

 結局、その日俺は華凜さんに話しかけることができなかった。
 しかし、奇跡は下校時刻間際に起きた。
 生徒たちが帰り、教室には日直の俺と、黒板を消している華凜さんだけが残った。

「田中くん」
 チョークの粉を払いながら、華凜さんがこちらを見た。
「あ、うん。お疲れ様、一条さん。今日も凄かったね」
「疲れましたわ。……それで、あなたはどうですの?」
「え?」
「あなたも、わからないところがある顔をしていましたわ。ずっと後ろでモジモジしてたのが見えていましてよ」

 バレていた。顔から火が出そうだ。
「い、いや、俺なんかレベル低いし、忙しい一条さんの時間を奪うのは悪いと思って」
「遠慮なんて無用ですわ。……どこがわからないんですの?」

 華凜さんは俺の机まで歩いてくると、広げていた数学の問題集を覗き込んだ。

「……ここ、基礎がなってないようですわ。中学の範囲が抜け落ちていますのね」

 彼女の細い指が、俺の情けない回答を指差した。至近距離。夕暮れの教室。花の香り。
 俺の心臓は早鐘を打ったが、彼女の瞳はあくまで先生のそれだった。

「いい? 今から10分だけ教えてさしあげますわ。一度しか申しませんので、死ぬ気でお聞きなさい」

 その10分間は、地獄であり天国だった。 神楽の言った通り、彼女の説明には上からの目線が滲み出ていた。

「なんでこんなこともわからないのかしら?」

 そんな無言の圧力を感じつつも、言われた通りに考えると霧が晴れるように理解できる。魔法だ。俺は改めて、彼女の才能に畏怖した。

 そして迎えた審判の日。 廊下に張り出された学年順位表の前には、すでに人だかりができていた。

 1位:一条 華凜 988点  
 2位以下の生徒に50点以上の差をつけての圧勝。王座は揺るがない。

 そして俺、田中陽翔の名前は――45位:田中 陽翔 780点

 学年200人中の45位。 前回が120位だったことを考えれば、驚異的なジャンプアップだ。

「おい田中! お前なにしたんだよ! カンニングか!?」  

 サッカー部の仲間がバンバンと背中を叩いてくる。俺はガッツポーズをした。やった。これなら、少しは彼女に近づけただろうか。

 俺は意気揚々と華凜さんの元へ報告に行った。

「一条さん! 見てくれた? 俺、45位になったよ! あの10分のおかげだ、ありがとう!」

 彼女は文庫本から目を離し、廊下の方をチラリと見て、それから俺を見た。

「……ふうん」
 期待に反して彼女の反応は薄かった。

「おめでとうございます。でも、田中くん?」
 彼女は美しい指先で、自分の順位(1位)と俺の順位(45位)の間の、果てしない空白をなぞった。

「T大を目指すのでしたら、今の点数は『最低ライン』にも届いておりませんわ。……浮かれている暇があったら、まずは夏休みの課題を完璧にしてきてくださいまし」

 冷たい言葉。その口元がほんの少しだけ緩んだ。

「期待しておりますわ」

 その一言で、俺は天にも昇る気持ちになった。厳しい。とてつもなく高いハードルだ。でも、彼女は俺を「見捨てて」はいない。45位の凡人が、1位の女王の世界を目指してもがく夏が始まる。

 華凜さんが強張った表情で教室の隅の神楽のもとへ向かうのが気になった。だが、変に突っつくとまた藪から蛇を出してしまいそうな気がした。真剣に話し合う二人から机の上のノートに視線を落とし、夏休みの勉強計画を考え始めた。

 だから、二人がそっと教室を出ていったことには気づかなかった。

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