4月ー陽翔

 俺、田中陽翔(たなか・はると)の朝は早い。
  毎朝5時半に起き、朝練のために家を出る。これだけ聞けば「爽やかなスポーツマン」だが、俺の名前は田中だ。日本に何百万人といる、あの田中だ。
 顔も運動神経もそこそこ良いという自覚はあるが、この「田中」という平凡な響きが、俺の人生をどこか脇役めいたものにしている気がしてならない。

 だが、高校3年の春。俺の平凡な日常は、唐突に、劇的に、終わりを告げた。

 4月8日、始業式。
 新しいクラスの座席表を見たとき、俺は思わず二度見した。俺の席の右隣に書かれた名前。その四文字は、まるでそこだけ発光しているかのような輝かしい存在感を放っていた。

 一条華凜(いちじょう かりん)。

 この学校の生徒で彼女を知らない奴はいない。旧華族の流れを汲むという名家・一条家のご令嬢。成績は入学以来不動の学年トップ。新体操部では国体優勝を期待される大エース。さらには生徒会長まで務める完璧超人。

 もちろん、外見だって完璧だ。透き通るような白い肌に、意思の強さを感じさせる切れ長の瞳。艶やかな黒髪は校則の範囲内なのに、どこかあざといくらい美しく結い上げられている。

 あまりに高貴すぎて、声をかけようなんていう命知らずは一人もいない。文字通り、雲の上の「高嶺の花」。男子生徒の間ではもはや貴重な美術品扱いだ。

「よろしく、一条さん!」
 HRの後、俺は勇気を出して声をかけた。隣の席になったのだから、挨拶くらいは普通だろう。

 しかし、彼女は教科書を鞄にしまいながら、涼しげな流し目をこちらに向けただけだった。
「……ええ。よろしく、田中くん」

 抑揚のない声。俺の名前を呼んだだけで、それ以上の会話を拒絶するような冷たい壁。
 (やっぱり、住む世界が違うよな……)
 俺は早々に諦めて、サッカー部の連中のところへ行こうとした。

 事件が起きたのは、その翌朝のことだった。
 朝7時30分。通勤通学ラッシュの満員電車。 俺はドア付近のポジションを確保して、スマホでニュースを見ていた。ふと、視界の端に、見覚えのある紺色のリボンが入ってきた。 一条華凜だった。

 彼女は車両の奥の連結部分の近くで、吊革にも捕まらずに佇んでいる。だが、様子がおかしい。顔色が蒼白で、唇を強く噛み締めている。 まるで何かを必死に耐えているように。

 背後に目を向けると、サラリーマン風の男が密着していた。電車の揺れに合わせて、鞄で隠した手を彼女の腰あたりに這わせているのが見え隠れする。痴漢だ。

 血の気が引くと同時に、頭の中が真っ白になった。高嶺の花である彼女が、あんな卑劣な男に汚されている。助けなきゃ。でも、冤罪だったら? 騒ぎになったら彼女が傷つく?

 葛藤は一瞬だった。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちそうになっているのを見た瞬間、俺の身体は勝手に動いていた。

「おい! お前、何やってんだよ!」
 俺は人混みを強引に掻き分け、男の腕を掴み上げる。
「あ、なんだ君は!」
「この人の身体に触ってただろ。警察突き出すぞ!」

 俺の怒声に、周囲の乗客が一斉に注目する。男はバツが悪そうに舌打ちをすると、次の駅でドアが開いた瞬間、乗客をかき分けて逃げるように降りていった。

 車内に奇妙な静寂が戻る。 俺は荒くなった息を整えながら、彼女に向き直った。
「……大丈夫か? 一条さん」
 彼女は肩を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。

 いつも学校で見せる、氷のような冷徹な表情はそこになかった。濡れた瞳。紅潮した頬。乱れた制服の襟元。 その無防備で儚げな姿に、俺の心臓が早鐘を打った。

「……ありがとう。助かりましたわ」
 消え入りそうな声だった。
「怖かったよな。次の駅で降りて、少し休むか?」
「いいえ、大丈夫ですの。……学校、遅れてしまいますので」
 彼女は気丈に振る舞おうとしていたが、吊革を握る白い手は小刻みに震えていた。

 俺はとっさに、自分の身体を彼女と周囲の乗客との間に割り込ませた。
「じゃあ、学校までこうしてる。俺が壁になるから」
「……はい?」
「もう誰も近づけない。安心して」

 俺の背中に、彼女の熱が伝わってくるような距離。 電車が揺れるたびに、彼女の吐息が俺の首筋にかかる。シャンプーの、高級で上品な花の香りが俺の脳髄を痺れさせる。

 駅に着くまでの15分間、俺たちは無言だった。俺の背中のシャツを、彼女が小さな手でぎゅっと掴んでいるのがわかった。

 学校に着くと、彼女はいつもの「生徒会長」の顔に戻った。だが、別れ際。下駄箱の前で彼女は立ち止まり、俺の方を振り返った。

「田中くん」
「あ、うん」
「……朝はありがとう。あなた、意外と頼りになりますのね」
 ほんの少しだけ、口角が上がっていた。

 春の朝陽よりも眩しいその微笑みに、俺は完全に、完膚なきまでに撃ち抜かれた。 ああ、俺はこの人のことが好きだ。 高嶺の花だろうが何だろうが、絶対にこの人を守りたい。そう思った。

 その夜。部活を終えて帰宅した俺は、興奮冷めやらぬままベッドに転がっていた。時刻は22時を回ったところだ。
 そうだ、連絡先くらい聞いておけばよかった。いや、さすがに調子に乗りすぎか? でも、今日のお礼とか、体調の確認とか、口実はある。明日の朝、教室で聞いてみようか。

 そんな妄想をしていた時、ふと世界の伝説・伝承に詳しい同級生・神楽朔(かぐら・さく)が言っていた奇妙な噂を思い出した。
『一条家には独自の厳しいルールがあるらしい。夜10時にはすべての通信機器を断って就寝するんだと』

 まさかな、と俺は笑った。現代の女子高生が夜10時に寝る? スマホも見ずに? ありえないだろ。 俺は試しに、クラスのグループLINEのメンバーリストから彼女のアカウントを探してみた。
 アイコンは初期設定のまま。ステータスメッセージも空欄。まるで、そこには誰もいないかのような静けさだった。

 このときの俺はまだ知らなかった。俺が彼女と話せる時間は、朝の7時から夜の10時まで。 その時間が過ぎれば、彼女は俺の手の届かない、深く静かな闇の中へ消えてしまうということを。 そしてその闇の中に、誰が潜んでいるのかということを。

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