プロローグ

 ウェールズ南西部、カーマーゼン。 「マーリンの砦」をその名の由来とするこの古都は、アーサー王を導いた大魔術師が幽閉された土地としても知られている。

 若者がその地を訪れたのは、単なる異国への興味と、少しばかりの夢と性的な冒険心からだった。 ガイドブックには「ブリン・ミルディン(マーリンの丘)」と記された場所がある。伝説では、マーリンは恋した妖精の手によって、この地の水晶の洞窟に封じ込められたという。

「……また、電波が入らないな」

 鬱蒼と茂るオークの古木に囲まれた山道で、若者はスマートフォンの画面をタップする。 数分前まで晴れ渡っていた空が、嘘のように白濁している。ウェールズの天気は変わりやすいと聞いていたが、この霧の濃さは異常だった。視界は数メートル先も見通せず、まとわりつくような湿気が肌を濡らす。

 方向感覚を失い、どれほど彷徨っただろうか。 不意に、霧の晴れ間に石造りの小さなコテージが現れた。 煙突から細く煙が立ち上っている。安堵した若者は、迷わずその扉を叩いた。

「――おや。可愛らしい迷い子が来たこと」

 扉を開けたのは、一人の女だった。 年齢は不詳。二十代のようにも見えるし、遥か昔からそこにいたようにも見える。濡れたような黒髪に、古風な薄絹のドレスを纏い、その瞳は森の奥の湖のように深く、暗い光を宿していた。 言葉は英語のはずだが、脳に直接響くような甘い響きを持っていた。

「ここがどこか分からずに入り込んだのね? ……ふふ、マーリンの古傷を刺激してしまったのかしら」

 女は彼を招き入れた。室内には電気もなく、暖炉の火だけが揺らめいている。 甘い、花と腐葉土を煮詰めたような芳香が漂っていた。 出されたハーブティーを口にした瞬間、若者の意識は急速に混濁し始めた。手足が痺れ、指一本動かせなくなる。だが、恐怖はなかった。代わりに、下腹部の奥からとろけるような熱さが湧き上がってくる。

「いい素材だわ。異国の血……それに、あの方と同じ『器』の素質がある」

 女が若者の膝に乗るようにして覆いかぶさってきた。 柔らかな乳房の感触。吐息がかかる距離で、女が艶然と微笑む。それは慈母のようでもあり、獲物を前にした肉食獣のようでもあった。

「抵抗しなくていいの。貴方はただ、空っぽになればいい。私の『愛』を、その身に受け入れなさい」

 拒絶などできるはずもなかった。 理性が融解し、獣の本能だけが暴れ出す。若者は貪るように女を求め、女もまた彼を搾り取るように絡みつく。 意識が白く弾ける瞬間、彼の中に灼熱の何かが――人の身には余る、禍々しい「夢魔の因子」が、奔流となって注ぎ込まれた。

 鳥のさえずりで、若者は目を覚ました。 背中に感じるのはベッドの柔らかさではなく、硬く冷たい岩の感触だった。

「……ここは……?」

 飛び起きて周囲を見渡す。そこは昨夜のコテージではなかった。 苔むした巨石が環状に並ぶ、ストーンサークルの中だった。古代の遺跡、祭壇の跡だろうか。朝霧は晴れ、冷涼な空気が満ちている。

 夢だったのか。 そう思いかけたが、身体の感覚がそれを否定していた。 ひどい倦怠感があるはずの身体が、羽のように軽い。視界は驚くほど鮮明で、遠くの木の葉の葉脈までが見えるようだ。 そして何より、下腹部に残る満たされない渇きと、身体の奥底で何か得体の知れないものが脈打つ禍々しい感覚があった。

 ふと、遺跡の近くで野宿をしていたらしいバックパッカーの姿が目に入った。寝袋に包まり、まだ眠っている男性だ。 その姿を見た瞬間、若者の脳裏に奇妙なノイズが走った。

 まるで映画のスクリーンを見るように、他人の「中」が見える。 男の夢――故郷の家で食事をしている情景――が、若者の視界に割り込んできたのだ。

(……見える?……触れそうだ)

 無意識に手を伸ばす。夢の中の食卓にあるグラスを、指先でなぞるイメージを浮かべた。 すると、眠っている男が「うう……」と呻き、寝返りを打った。 夢に干渉したのだ。

「……インキュバス」

 なぜか、その単語が自然と口をついて出た。 かつてマーリンの父とされた夢魔。昨夜の女は、その眷属だったのか。あるいは――原祖のサキュバスそのものか。

  若者は自分の掌を見つめた。 そこには、昨日まではなかった微かな痣が、紋様のように浮かび上がっていた。

 もう、ただの人間ではないことを 彼は理解した。この渇きを癒やすには、夢を、そして女を喰らうしかないのだと。 ウェールズの古き森の風が、祝福するように彼の頬を撫でていった。

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