カチ、コチ、カチ、コチ。
リビングに置かれた大きな古時計の音が、私の鼓動よりも大きく響いている気がした。 錦織(にしごおり)家の朝は、いつだって通夜のように静かです。
「あら、深樹(みき)さん。またスープを残して」
義母の刺すような声に、私はビクリと肩を震わせました。
顔を上げると、白髪を綺麗に結い上げた義母が、侮蔑と憐憫がない交ぜになった瞳でこちらを見下ろしています。
「申し訳ありません、お義母様。少し胃が重くて……」
「困るわねえ。しっかり栄養を摂ってもらわないと。貴女の体は、もう貴女一人のものじゃないのよ? 次は男の子を産まないと、ご先祖様に顔向けできないでしょう」
ご先祖様。跡取り。男の子。
この家に嫁いで3年。私の耳には、もうその言葉しか届いていない気がします。
私は、錦織深樹。
この地方都市を牛耳る名家、錦織家の長男の嫁。
……いいえ。正確には、高価な家具の一つ。あるいは、跡取りを産むための機能不全の臓器。
助けを求めるように、私は正面に座る夫、大輝(だいき)に視線を送りました。
夫はスマホの画面をスクロールすることに夢中で、私のことなど視界に入っていません。
「……大輝さん、あの」
「ああ? なんだよ、朝からうるさいな。俺は忙しいんだ。お袋の言う通りにしておけよ」
夫は面倒くさそうに吐き捨てると、まだ温かいコーヒーを飲み干して席を立ちました。
広いダイニング。
高級な食器。窓の外に広がる手入れされた日本庭園。
ここは誰もが羨む豪邸。何不自由ない暮らし。
けれど、ここには酸素がありません。
私は今日も、見えない真綿で首を絞められながら、作り笑いを貼り付けて一日を始めるのです。
そんな窒息しそうな日常の中で、彼女……霧島美令(きりしま・みれい)さんと出会ったのは、運命だったのかもしれません。
場所は、皮肉にも総合病院の産婦人科のロビーでした。
――初めて見る人なのに、どこかで見たことがあるような気がする。
そんな思いを抱きながらチラチラ視線を送っていると、向こうも同じようにこちらを見ていました。
先に会計を終えたその女性は、私が診察室から出てくると、待っていたように声をかけてきました。
「あの……お姉ちゃん……じゃ、ない、です、よね……?」
尻つぼみに声が小さくなる彼女の顔を間近で眺めて、私は息を飲みました。
どこで見たことがあるのか、すぐにわかりました。鏡の中です。
髪型やメイクが派手で、私とは雰囲気がまるで違うけれど、根本的な顔つきの造作が私に瓜二つでした。
興味を引かれて話を促すと、彼女には生き別れたお姉さんがいるらしい。私がその人に似ていたため、まさかと思いながらも、一抹の望みを抱いて声をかけてみたとのことでした。
この時以降、彼女を病院だけでなく近所のスーパーでも見かけるようになり、会釈から挨拶、そして立ち話をする仲になっていきました。
最近このあたりに引っ越してきたばかりという彼女に、私は地元の情報を教えてあげました。
すると「是非お礼をさせてください」と誘われ、彼女お勧めのカフェでスイーツをご馳走になることになりました。
久しぶりの、友人との会話でした。
大学を卒業してすぐに名家に嫁ぎ、家事と「跡取り作り」のプレッシャーに追われていた私にとって、美令さんとの他愛ないおしゃべりは、砂漠に降る雨のような貴重な時間になっていきました。