忌引休暇明けの新橋。ガラス張りのオフィスビルから見下ろす街は、今日も無機質な灰色の箱庭のようだ。 デスクには未処理の書類が山積みになっている。部下たちが不安げな視線を向けてくるが、感傷に浸っている暇はない。
「主任、例のプロジェクトの進捗ですが」
「先方の決裁権者が変わったから保留。代わりにB案の資料を明日の朝一で揃えて」
パソコンの画面から視線を外さずに指示を飛ばす。キーボードを叩く指先が止まることはない。 父の死も、あの夜の過ちも、仕事という鎧を着込んでしまえば一時的に忘れられる。有能なキャリアOL。それが今の自分を辛うじて支える唯一のアイデンティティだ。
「|小鳥遊《たかなし》主任」
不意にデスクの脇から声がかかる。顔を上げると、大型犬を思わせる人懐っこい瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいる。 部下の黒須君だった。
少し癖のある茶色がかった髪に、人当たりの良い笑顔。社内でも可愛がられているが、手のかかる弟のような存在でもある。
「顔色が悪いですよ。無理してませんか」
黒須君は温かい缶コーヒーをそっとデスクの端に置いた。その手つきは、壊れ物を扱うように優しい。
「平気。仕事があるほうが気が紛れるの」
嘘ではない。手を動かしていれば、あの空洞を直視せずに済む。
「そうですか。でも……何かあったら、俺に言ってくださいね。いつでも飛んでいくんで」
尻尾が見えそうなほどの忠犬ぶりだ。その純粋な好意が、汚れた今の身には少し眩しく、同時に苛立ちも覚える。
「ありがとう。戻って仕事して」
冷たくあしらうと、黒須君はシュンとした顔で自分の席へと戻っていった。
*
定時を過ぎ、フロアに静寂が戻る。ここからは個人のプロジェクトの時間。 手元には画廊の主人が教えてくれたメモがある。
『伝説の緊縛師 鬼灯』
あの絵は空想ではなく、実在するモデルを縛って描いたものだった。
スマホで検索窓に文字を打ち込む。「緊縛」「SM」。画面に並ぶのは、これまで生きてきた世界とは無縁の倒錯的で禍々しい画像ばかり。だが、その中には間違いなくあの絵と同じ「静謐な美しさ」もあるのだ。
ネットの情報だけでは足りない。広告代理店勤務という職権とコネをフル活用することにした。
「今度、アンダーグラウンドな芸術家の特集を組みたいの。昔、鬼灯という伝説の緊縛師がいたらしいんだけど噂を耳にしたことあったりする?」
制作会社のプロデューサーや、サブカルチャーに詳しいライターに連絡を取り、仕事のリサーチを装って情報を集める。
数日後、あるフェチバーのマスターを紹介された。 新宿の雑居ビル。重い扉を開け、煙草の煙が充満する店内で、かつて鬼灯に縛られたことがあるという元モデルの女性に行き着く。
「鬼灯先生? もう何年も前に引退して、田舎に引っ込んだわよ」
女性はマティーニのグラスを揺らしながら懐かしそうに目を細めた。
「**渓谷のほうにある、古い日本家屋を買ったって聞いたわ。白髪で、いつも作務衣を着ていて……目が怖いくらい綺麗な人」
週末。私はハイカーで賑わう東京西部の駅に降り立った。 リュックを背負った老若男女とは違い、足元こそスニーカーだが服装はトレンチコート。明らかに浮いている。
渓谷には向かわずに聞き込みを開始する。
「白髪で、着流しや作務衣を着た、初老の男性を見かけませんか。芸術家風の」
駅前の観光案内所、土産物屋、食堂、バスの運転手・・・。空振りが続く。だが、諦めない。足を使って情報を稼ぐのは新人時代からの基本だ。
渓谷の奥へ聞き込みをしながらひたすら歩き続け、集落の小さな商店に入る。
「ああ、その人なら知ってるよ」
レジにいた老婆が、私の見せたメモを見て頷いた。
「時々、米や酒を買いに来るおじいさんだね。ここからさらに三十分ほど登ったところにポツンと立っている、古い和風の屋敷だよ」
ビンゴ!
丁寧にお 礼を言い、教えられた山道に目を向ける。舗装もされていない道が、鬱蒼とした森の中へと続いている。
心臓が早鐘を打つ。 この先に、あの絵の女性にあんな表情をさせた緊縛師がいる。私の心の空洞を埋めてくれるかもしれない男が。
コートの裾を翻し、意を決して足を踏み入れた。