1章:運命の出会い(紗英)ー第1話:心の空洞

 父が死んだ時、私は一滴の涙も流さなかった。

 都内の斎場。しめやかな読経の声が響く中、喪主の席で背筋を伸ばしている私。オーダーメイドの喪服が身体を鎧のように隙なく包んでいる。 焼香に訪れる参列者たち――父の取引先や親族たち――へ、隙の無い角度で頭を下げて滞りなく式を進行させる。
「気丈な娘さんだ」 「さすがは紗英さんだ、立派だよ」
 そんな囁きが耳を掠めるたびにハイヒールの中のつま先が冷えていくのを感じた。 悲しくないわけではない。泣くべき時に泣けない。そんな自分の不器用さと可愛げのなさに吐き気を覚える。

 父は唯一の肉親だった。けれど、私の心には悲しみよりも巨大な「空洞」が大きな口を開けていた。まるで自分の何もかも、存在すべてを飲み込んでしまいそうな、大きく深い穴が。

 *

 火葬を終え、精進落としの席も早々に切り上げて一人暮らしのマンションへ帰宅した。 母が失踪して以降、ずっと父と二人で暮らしていたが、就職を機に一人暮らしを始めて数年になる。
 しばらくぼんやりしていたものの、普段着に着替えて夜の街へと逃げ出した。 唯一の肉親の喪失感に押しつぶされそうで、一人暮らしの部屋の夜の静寂の音に耐えられる自信がなかったからだ。
 
 数駅先の巨大なターミナル駅で電車を降り、ふらふらと適当に歩いて見つけた地下のバー。その重い扉を押し開ける。  
 慣れないウイスキーを煽った。喉を焼く熱さが、胸の空洞を埋めてくれる気がした。

「……お一人ですか?」
 声をかけてきたのは、仕立ての良いスーツを着た男だった。普段なら無視する。だが、顔立ちも整っていたし、メイクも適当な普段着の私を見ても引く様子がない。思考が麻痺していたそのときの私は、その薄っぺらな笑顔に頷いた。 心の空洞を何かで強引に埋めたかった。何でもよかった。

 男は紳士的で、私の空虚さを埋めるように丁寧に肌を愛してくれた。久しぶりに感じるオーガズムの後、自分でも意外なほど満たされた気持ちで深い眠りに落ちた。自分では気づかなかったが、心身共にとても疲れていたのだろう。 

 しかし翌朝、目が覚めた私の視界に飛び込んできたのは、枕元に置かれた数枚の一万円札だった。 その脇にはホテルのメモ用紙。 『凄く良かったよ。また一緒に楽しもう。LINE ID:xxxx……』  
 自己嫌悪に陥る私。

(私は、何をやっているんだろう……)
 昨夜の快感が一瞬にして汚泥のような恥辱へと変わった。有能なキャリアOLの自分が侮辱された気分だった。 埋まったと錯覚した心の底が抜けて、最深部が見えない程に深くなった気がした。

 シャワーで執拗に身体を洗っても嫌悪感が消えない。二日酔いの頭痛と股間の鈍い不快感を引きずりながら、あてもなく昼下がりのオフィス街を歩いた。

 今日は平日だ。忌引休暇中の私と違い、周囲はスーツを着たビジネスマンたちが行き交っている。 ビル風がスカートを揺らす。ペタペタというサンダルの音がアスファルトに虚しく響く。

「紗英は自慢の娘だ」
 そうやって仕事を頑張る私を褒めてくれていた父は、もういない。兄弟姉妹も、恋人もいない。ずっと仕事一筋で生きてきた。  
 これから何を支えに生きていけばいいのかわからなかった。 歩道橋の上で、ふと、このまま消えてしまいたいと思った。

 その時だ。けたたましいクラクションの音に顔を上げると、雑居ビルの前に出された、場違いに派手な看板が目に入った。 そのケバケバしさに死にかけていた好奇心がふと呼び覚まされる。 今日は休みだ。やるべきことなんてもう何もない。歩道橋を降り、その看板に近づいた。

『現代春画展 ―美と背徳の系譜―』

 普段の私なら眉をひそめて通り過ぎる類のものだ。けれど、そのときの私はまるで吸い寄せられるようだった。案内に従って路地を曲がり、薄暗い階段を降りていた。  
 小さな画廊の中は静まり返り、お香のような甘い匂いが漂っていた。壁にはあからさまな性描写を描いた絵が並んでいる。 一番奥の一枚の絵。その前で、縫い付けられたように足が止まった。

 一人の女性が縄で緊縛された春画風の絵だった。 緋色の縄が白い肌に食い込んでいる。手足は不自然なほどに折り畳まれ、自由を完全に奪われている。 痛そうで、苦しそうだった。 けれど、その女の表情に強く惹かれた。
  とろりと潤んだ瞳はどこか遠くを見つめていた。苦痛を超えた圧倒的な安らぎがあった。責任も、迷いも、悲しみさえも、すべてを委ねてしまったような、無垢な陶酔。

「……あ」
 唇から、吐息が漏れた。求めていたのはこれだ。誰かに縛られ、自由を奪われ、何も考えなくていい状態にされる。重たい「私」を、誰かに丸投げしてしまう。  
 絵の中の女と目が合った。どこか自分に似ているその女性は、私を勇気づけるかのように優しい微笑を返してくれた。

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