
「可愛い!」
男が取り出した旅行土産の薄桃色の髪留めを見て、思わずという感じで乃愛が叫んだ。
今の乃愛は高額なものは絶対に受け取らないので1000円もしない。それでも現地の工芸品だ。色はかなり悩んだ。21歳になったし大人っぽく春めいた濃い緑色を選ぼうとしたあげく、自室で勉強中にでも使ってくれればいいと、結局、乃愛の好む色にした。
会う前に旅行に行くと告げていたのだから何も渡さないのは男の選択肢になかった。
同じように旅行していた乃愛もお土産用のクッキーを一つだけ持ってきていた。母親と二人での旅行だから変なお土産は買えないし、この日のデート費用は全額乃愛が払うことになっていたから、男にとってはそれで十分だった。
男の誕生日から1年以上が経過していた。その間二人が実際に会うことはなかった。あれが一つの節目だったし、二人とも忙しくなったからだ。
年が変わると乃愛は短期語学留学に行き、新年度からはサークルを辞めて本格的な就職活動を開始した。男も新年度から新しい職場で働き始めた。愛する乃愛の夢の実現を邪魔することは男にとって決してやってはならないことだった。
連絡は毎日ではないが随時取り合っていた。年度初めは男のほうからの一方的な連絡ばかりだったが、次第に乃愛からの報告が増えていった。
サマーインターンシップに申し込んで好成績で終えた、就活の一環としてとあるPRボランティアに応募したらメンバーに選ばれた、などの就活のことばかりだけではなかった。
ミスコン参加を検討していること、バイトを変えたこと、祖父母の体調が悪いこと、前彼を振って新しい彼氏と付き合い始めたこと、なども。
男は基本聞いているだけだったがミスコンには反対した。新たなことへの挑戦は良いことだしそれで好結果が出て自己肯定感の低い乃愛が自分の容姿に自身が持てるなら素晴らしいことだ。乃愛が参加すれば一番になることも十分にあり得ることだった。
一方、悪目立ちしたりトラブルに巻き込まれて就活に悪影響が及ぶことが懸念された。そう伝えると乃愛も納得して参加を取りやめた。
前彼は乃愛が止めてと言っていたギャンブルを再開し乃愛にお金を借りるようになっただけでなく、浮気も発覚したため振ったとか。
前彼はインカレサークル内で根拠のない悪口を言いふらしているそうだ。振られて当然だが乃愛は付き合ったことを後悔していなかった。乃愛が助けられたことも確かにあった。
新しい彼氏は外見も性格も学歴も男にそっくりとのことだった。病んでいるところまで。彼氏の父親の写真を見たら、彼氏以上に男にそっくりで非常に驚いたとも聞いた。
男は昔自殺しようとODして病院に緊急搬送されたことがあった。そのことを乃愛に話したら乃愛がODに頼るようになってしまい、既に何度か救急車で搬送されていた。だからOD経験を話したことを後悔していた。
「俺に似ているならいいんじゃないか。俺は欠点も多いが全体としては良い男だぞ」
男が言うと乃愛は一言こう答えた。
「そうね」
男のことを褒めたのか彼氏のことを褒めたのか、男にはよくわからなかった。
乃愛は就活とアルバイトと勉強で忙しい中でも、親友と韓国旅行したり、彼氏と横浜デートをしたり、語学留学で知り合った他大学の女の子と交流したりと大学生生活を楽しんでいた。
秋。
今年は男の誕生日に会うことはなかった。男は春の乃愛の誕生日におめでとうのメッセージを当日送っていたが、乃愛から男へのそれは数日遅れてきた。
後でわかったことだが、祖父が危篤になり母の病気が判明するなど心身ともに厳しい状況に追い込まれていた。高齢の父親は家を顧みない昭和の仕事人間で、高齢出産で生まれた乃愛は一人娘。家事、介護、看護の負担が乃愛に圧し掛かっていた。
年明け。
男が新年の挨拶を送ると「祖父が亡くなり喪中のため新年の挨拶を控えます」と返事がきた。「箱根駅伝見てたら映ってた気がした。沿道で応援してたりした?」とも。先回は応援していたが今回はしていなかったから人違いだった。
そう伝えると乃愛はごめんなさいと謝った。乃愛が男のことを考えてくれているのが嬉しく感じた男は謝られることを奇異に感じた。
二月。
乃愛が早期最終選考に進んだ。
この頃、乃愛から男に明け方、突然連絡があった。男が夢に出て来て何かの啓示かと思ったそうだ。夢の中で美容師になっていて、巧みなテクニックで髪を切る姿がとても様になっていたらしい。
三月初頭。
乃愛が希望する職種の第一希望の企業から内定を獲得した。男は自分のことのように喜んだ。
「内定獲得祝いをしよう」
男のその提案を乃愛は断り逆にこう言った。
「これから毎月私を使ってください、卒業まで。それで終わりにしましょう」
男は以前から指摘しようと考えていたことを、就活という大事なイベントが終わったその時、はっきりと伝えた。
「君が俺から離れられないのは4つの理由がある。俺にとても感謝していること。そんな俺を裏切った罪悪感。俺に復讐されることへの恐怖感。俺が傷心のあまり自殺してしまうのではないかという懸念。この4つだ」
乃愛は全くその通り、まるで心を透視されているみたい、と全面的に認め、男の別案を承諾した。
「乃愛が去年家族で行った高級フレンチレストランでランチをご馳走してくれ。そのあと近くの遊園地に行こう。乗り物は3つまででいい。最後に海の見えるカフェでお茶をして、乃愛が夕飯の支度に間に合うよう解散する。それで全て帳消しになり乃愛の心もすっきりするだろう」
過去何度も乃愛のために男がしたように、男のために乃愛が労力を費やして男の生活圏まで来て時間とお金を男のために使うことを一度だけ求めた。
男は乃愛と普通のデートをすることをずっと望んでいて、乃愛もそのことをよくわかっていた。その気持ちを乃愛が汲み取ったということだ。
乃愛を卒業まで何度も好きに抱ける。それは男にとって悪魔の誘惑だった。
だが乃愛はもう彼氏を裏切りたくないと言っていた。男とエッチをしたら笑顔で別れられないとも言っていた。
就活が上手くいかずに悩んでいる親友と酒を飲んでいるときに、酔った勢いで男との高級フレンチ&遊園地デートをとても楽しみにしているとの本音を伝えてきてもいた。
だから男はその誘惑をなんとか退けた。
後悔がなかったとは言わない。聖人君子でも性欲がないわけでもなかったから。しかしそれ以上に乃愛の心と自分の意志を大切にしたかった。
4月上旬。
久しぶりに会うからその前に一度軽く会っておいたいという乃愛の希望により二人は大学近くの思い出のカフェで会った。男のお茶代は乃愛が払った。
乃愛の語学留学のときの写真などを見ながら良い雰囲気で雑談して別れた。このときに男も乃愛も翌週旅行に行くことがわかった。今の彼氏とは男性と二人で食事をすることがOKの条件で交際を始めたことも。
4月下旬。
最初で最後となる遊園地デートの日が訪れた。
曇り模様の風が強い日だった。今から家を出ます、と連絡を受けた男はゆっくり歩いていけばちょうどいいだろうと家を出た。乃愛と連絡をとりながら速度を調整して歩いた。
店内では乃愛が先に座っていた。紺色のボタンダウンシャツにチノパン、スニーカーといったアイビールック風のファッション。
スカートでないのが残念だったが、男が前日の夜に強風の予報を伝えていたし、月経1日目でもあったから合理的だった。
大学へ行くと母親に行って出て来た手前、ノートPCの入った重そうなかばんを持っていた。
「大学生みたいだ」という男に「優秀な女子大生よ!」と胸を張った。
前夜、二人は喧嘩していた。「夕方4時半には帰ってもいいよね?せっかくそっちまで行くんだし、寄りたい場所があるから」と突然言った乃愛に男が激怒した。
乃愛はいつもそうだった。男のために使うべき時間を直前になって自分の都合を優先して使おうとする。しかもその理由をちゃんと説明しないで。
男は彼氏と会うのではと邪推したが、留学で知り合った女の子のキャンパスに行って会おうと思いついただけだった。だがそれでも男にとって大事なその日に乃愛がとるべき行動ではなかった。
そういう心の機微に疎いことが乃愛の大きな短所だった。
「他人の心がわからなすぎる」
男が何度目かの同じ指摘をすると乃愛は悲し気に応えた。
「ありがとう。今はわかってる。いじめにあったのもそれが理由だったことも」
その翌日にしては二人の雰囲気は良かった。「今日は楽しんでもらうから」と言っていた乃愛が有言実行したからだ。
店内は内装も食器も豪華で、料理もいかにも手が込んでいる見た目で味も美味しかった。
季節のフルーツを使ったカクテルで乾杯しコースがスタートした。選択式のメニューで二人は被らないようにしてお互いの皿から少しづつ味見をした。
男は久しぶりにフォアグラを食べた。乃愛はいつも通りメインが牛ステーキ、デザートがプリンだった。量が多すぎで男はデザートを残してしまった。
乃愛のデザートの皿には、「内定獲得おめでとう!」と書かれていた。レストランの予約は男がしていたからついでに頼んでおいたのだ。支払いは全額乃愛だから疑問にも思ったが、それでもお願いした。乃愛は喜んでいるように見えた。
遊園地への移動中、乃愛の重そうなかばんを手ぶらの男が持とうとすると拒まれた。月経が来ているのに乗り物に乗れるのか確認すると「病気じゃないから大丈夫」とも言った。
病気ではなくても体調が悪いことに変わりはないと男は考えていて過去に何度も喧嘩になっていた。だから男は乃愛の言葉をそのまま受け取りかばんも持たなかった。
平日の遊園地は空いていた。しかも強風のため幾つかの乗り物が運行中止になっていた。男が乗りたいと思っていたジェットコースターも。
その代わり激しく回転してだんだんと垂直になる乗り物に乗った。男の感覚ではジェットコースターより激しくスリリングだった。
降りた乃愛が明らかに弱っていたので、その後は乃愛の好きなミラーハウスとシューティングゲームという穏やかなアトラクションを選んだ。
ミラーハウスでは二人で別れて行動した。乃愛は好きだというだけありすぐに出口に辿り着いた。男は迷って入り口に戻ってしまい、戻ってきた乃愛に連れられて出口に到達した。
シューティングゲームでは僅差で乃愛が勝った。負けず嫌いの男は悔しがった。
3つ体験したので遊園地を去り海辺のカフェに移動した。立地は素晴らしく値段もリーズナブルなのに空いていた。まだできたばかりが知名度が低いせいだろう。
乃愛の資金が尽きたというので、そのカフェのお茶代は男が支払った。食事代なども払うつもりだったから約束違反だと乃愛を責めることはなかった。
カフェでは乃愛が用意してきた誓約書に男が署名した。そうすれば乃愛が安心できるのではないかと男が提案していたものだ。
ー両親、親戚にこれまでのことを言わないー
ー両親、親戚、親友、パートナーに危害を加えないー
ー自分を大切にし寿命を全うするー
両親のことは許したのかと男が確認すると乃愛が頷いた。男がみる限り両親の毒親ぶりが完全に治ったとは思えなかったが、乃愛の気持ちを尊重することにした。
危害を加えると思われていることに愕然とした。ただ両親に毒親教育の結果を知らしめ苦しめたいという気持ちが男にはあった。
カフェやレストランでの報告会に年1回付き合うこと、という最後の行に横線を引いて消したあと、本名で署名して乃愛に紙を返した。今日の行為とこの書類で乃愛の心がすっきりするのだから、これ以上乃愛を束縛してはいけなかった。
連絡用のSNSも消すと言った。紙を受け取った乃愛は涙ぐんでいた。
乃愛はトイレに行き気持ちを整理して戻ってくると明るく自分のことを語った。
ーもっと語学の勉強をしたいー
ー今年の夏は両親とハワイに行くー
ー卒業旅行はイタリアに行きたいー
ーその前にまた語学留学したい、オーストラリアとかー
ー知り合いが誰もいない講義をとってしまい、講師の名前を機会ある毎に連呼して媚びを売ってるー
ー後輩女子から先輩と言われることに抵抗がある、そんなタイプじゃないからー
男はそんな乃愛を見つめながらあまり口を挟まず静かに聞いていた。
話が途切れた。約束の午後5時には早いし最後だけど区切りがいいのでここまでにしようと男は決意した。
「友だちに会うならキャンパスまで案内するよ」
「いいの?じゃあそうするね」
2週間前に男が渡した口紅を乃愛が塗り終わるのを待ってカフェを出た。あいかわらず風が強かったからできるだけ商業ビルの中を歩いた。
乃愛は饒舌だった。自分が方向音痴で地図を見ても迷うことや、途中の巨大なスヌーピーを見て好きなキャラクターのことを話したり、「私が彼氏と会うと勘違いしてあんなに怒ったんでしょ」と男をからかったりした。
キャンパスが見える交差点で立ち止まる。
「あれがそうだよ。俺はここを真っすぐ歩いて帰るからここでお別れだ」
乃愛も立ち止まる。
「…そう。オキシトシン出た?」
「ああ、たっぷり」
男の返事にほっとした表情を浮かべ、少し躊躇ってから右手を差し出した。
「なんて言っていいかわからないけど、今日は本当にありがとう。それにこの3年間とっても楽しかった!」
この日、男が乃愛の身体に触れたことは一瞬たりともなかった。乃愛から男に触れたことも。
男はハンカチを取り出し右手の汗を拭くと、その手を優しく握って握手をした。
「約束だよ。死なないで」
「…ああ」
乃愛と目を合わせず上を向いて返事をして手を離す。
「さようなら」
乃愛はこう返した。
「またね」
男と別れてキャンパス方面へ歩み去る乃愛。
その姿が見えなくなるまで、男は動かずにずっと見送った。
乃愛は時々振り返りながらゆっくりと歩き、目的の建物に着くと男をじっと見つめ、角を曲がって姿を消した。
乃愛の姿が見えなくなってからも男は暫くとどまっていた。
夕方5時を過ぎて帰宅するために駅へ向かう人々が増えると、連絡用のSNSを消去し、人混みに紛れて、老人のように緩慢な足取りでゆっくりと歩み去った。