第1部:篭絡「2月の葛藤」

 2月に入り、日中の日差しは少しずつ強さを増してきたが、風の冷たさは変わらなかった。

 誕生日の衝撃的な情事の後、優子の心は激しく千々に乱れていた。トイレや入浴のたびに、司に剃り上げられた自身の秘部の心許なさと、そこに刻まれた背徳の悦びの記憶が疼き、理性と感情との間で苦悩するのだった。

「司くん、あの日のことは忘れて。私は人妻で母親なの。一度きりの過ちだったことにしましょう」

 春休みで学生の姿の少ない日吉キャンパスの学食の裏手で、人目を忍んで伝えた優子の別れの表情は、悲しいほどに青褪めていた。しかし、司は彼女の細い手首を掴み、その瞳を射抜くように見つめ返した。

「忘れられるわけがない。本気で、あなたを好きになってしまったんです。あの日、あなたのすべてを知ってから、もう他のことなんて考えられない」

 若く未来に満ち、容姿に優れた青年からの真っ直ぐな告白。夫の賢治から女性としての尊厳を否定され続け、15年間も砂漠のような渇きの中にいた優子にとって、その言葉は枯れ果てた心に染み込む甘露だった。

「司くん……」

 司との関係を否定も肯定もできない優子に、司が変化球を投げかけた。

「優子さんもご存じだと思いますが、医学部生は3年生になるとキャンパスが日吉から信濃町に変わるんです。なので、今のみなとみらいのマンションを出て、都内のマンションに引っ越すことになりました」

「ええ、知ってるわ」

 この春からは司とキャンパスで会うことはなくなる。だからこそ優子は別れを切り出したのだ。しかし司は、自身の家庭事情を交えながら言葉を重ねる。

「今のみなとみらいのマンションは父の所有物件の一つなのですが、これを機に賃貸に出すそうです。新しい住まいは『もう大人なのだから部屋くらい自分で選べ、金は出す』と父から言われました」

 司は、困り果てたような顔で続ける。

「そんなことを言われても初めてのことで戸惑っています。住まいを選ぶ時のポイントを教えていただいたり、家具や生活用品などの買い物を手伝ってもらえたら、すごく助かるんです。優子さんのセンス、信頼していますから」

「私だって住まい選びの経験はないわ」

 やんわりと否定する優子。だが、司は諦めずに食い下がる。

「それでも、僕と違う住居や生活環境で長年暮らしてきた人の助言は役立つはずです。何より女性・主婦としての目で考えてもらえるといいなと思って。僕が選ぶと、どうしても見た目や広さだけで選んで失敗してしまいそうで。掃除・洗濯・料理・収納……そういうことに熟達している優子さんのアドバイスがあれば、これから最低でも4年間は住むことになる住居選びに失敗せず、快適な暮らしが保証されたようなものですから」

「それは、そうかもしれないわね……」

 自分で家を選んだ経験はなくても、パート仲間の主婦たちから、息子や娘が一人暮らしを始めたときの住居選びの失敗談を色々聞いていた。主婦としての視点が役に立つことは間違いなかった。
 特に、夫や息子が全く評価してくれない「主婦」としての自分を多く評価してくれることが優子の心の琴線に触れたことが大きかった。

 司と会えなくなると思うと胸が締め付けられるのも事実だった。

 また、不倫という後ろめたさを「将来を嘱望される若者の新生活を助ける」という正当な理由で上書きしてくれるものでもあった。

(内見や買い物の付き添いなら、怪しまれることもないわよね。司くんの役に立ちたいし)

「お願いします、優子さん! これで会えなくなるのは、寂しすぎます……」
 無言で思案している優子に司が懇願する。その声の必死さがダメ押しとなった。

「……私で役に立てることもありそうだから、協力するわ」
 優子は、自分の生活圏から離れた場所に、司との新しい隠れ家を持つような高揚感を抱きながら、承諾した。

 それからの優子はのぼせ上がるように、彼が提示する「新生活の準備」というデートの誘いに、抗う術を失っていった。

 司の新しいマンションを探すため、2人は渋谷の不動産仲介会社を訪れていた。

「失礼ですが、こちらの方は、お姉様でしょうか?」

 仲介会社の担当者が、2人の明らかな年齢差に戸惑いながら尋ねた。優子が顔を伏せ、慌てて「いえ、私は……」と否定しようとした瞬間、司が当然のことのように優子の腰をぐいと引き寄せ、肩を抱き寄せた。

「いいえ、僕の恋人です。彼女が気に入るかどうかが、一番の決め手なんです」

 優子は「司くん、困るわ……」と小声で嗜めながらも、耳たぶまで赤く染まっていた。

 公衆の面前で、これほど堂々と恋人宣言されたのは、人生で初めてのことだった。自由が丘の家では空気のように扱われ、家を訪ねてきた夫の同僚には「家政婦」のように紹介されてきた彼女にとって、この肯定は、罪悪感を塗りつぶすほどの歓喜を伴う自己肯定だった。

 数日をかけ、2人はキャンパスに近い物件をいくつか巡った。内見を重ねるうちに、優子の視点は自然と「半同棲を目論む女」のそれへと変わっていった。

「慶星のキャンパスなら、信濃町駅から歩くでしょう? こっちの出口からの方が通いやすいんじゃない?」
「このキッチンの動線なら、私が料理を作る時も楽そうね。……あ、ごめんなさい。私が使うわけじゃないのに」

 つい口を突いて出た言葉に、優子は自身の無意識の傲慢さを恥じて頬を染めた。しかし、司は背後から彼女の耳元に唇を寄せ、熱い吐息とともに囁いた。

「いいえ。優子さんにこそ、使ってほしいんです。時々、僕のためだけにエプロンを着けてほしい。誰にも邪魔されずに、あなたの手料理を味わいたい……あのお弁当の味が忘れられないんです」

 司の言葉は、優子を縛る甘美な鎖だった。結局、司が選んだのは、明治神宮外苑の緑を望む、新築の低層高級マンションだった。最寄り駅は青山一丁目駅。オートロックを3重に抜けるその堅牢なセキュリティは、外部からの侵入を防ぐと同時に、中にいる者を世間から隔離する檻のようでもあった。

「ここにしましょう、優子さん。僕たちの新しい住居です」
「ええ……きっと住みやすいと思うわ……私も通いやすそう」

 思わずそう返事してしまって赤面する優子だが、司が嬉しそうに微笑むのを見て安心するのだった。

 マンションの内見と前後してバレンタインデーがやってきた。例年なら、夫の賢治と息子の秀哉のためにデパートで無難なチョコレートを買うだけの義務的な日。しかし今年の優子は、家族が寝静まった深夜のキッチンで、1人静かにオーブンと向き合っていた。

 司のために焼いたのは、濃厚なガトーショコラ。専業主婦として時間を持て余していたときから料理だけでなく、お菓子づくりにはまっていて手作りに密かに自信があった。
 最高級のクーベルチュールを贅沢に使い、しっとりと重厚に焼き上げた。司の部屋に持ち込むためのそれは、家族に贈る既製品とは比べものにならないほど、優子の愛情が込められていた。

 翌日、代々木での内見を終えた後の広い公園で、優子は丁寧にラッピングした箱を差し出した。

「司くん、これ。バレンタインデーだから。手作りだけど自信作よ」

 司は、まるで貴重品を受け取るような恭しい手つきで箱を開け、その場で一切れを口にした。

「こんなに美味しいチョコレートケーキ、食べたことがない。これ、優子さんが僕のために焼いてくれたんですよね?」

 司の瞳には、驚きと、そして狂おしいほどの情熱が滲んでいた。彼はひとくちずつ、時間をかけて味わうと、優子に蕩けるような熱い視線を送った。

「優子さんのこれには、愛が詰まっている気がします。ああ、もう他の女が作ったものなんて、一生口にしたくないな。優子さんの手料理も楽しみだ」

「司くん、大袈裟よ……」

 優子は照れ隠しに笑ったが、その胸のうちは猛烈な優越感で満たされていた。家庭では作って当然と思われ、感想すら言われない自分の料理が、この青年にはこれほどまでに渇望されている。

「新しいマンションのキッチンには、優子さんが一番使いやすいオーブンを入れましょう。これからずっと、僕のために甘いものを作ってほしいから」

 司の言葉は、優子が司の新居に通うことが当然のように、甘く決定的な約束として優子に響いた。

 2月下旬、契約を終えた帰路、2人は大きなインテリアショップを訪れていた。司は、まるで本物の新婚生活を始めるかのような熱心さで、次々と家具を決めていく。

「このクイーンサイズのベッド、寝心地を確かめてみませんか? 2人で眠るのに、ちょうどいいサイズだと思って」

 店員の前でも臆さず、優子の腰を引き寄せて囁く司。優子は顔を赤らめながらも、その柔らかいマットレスに腰を下ろし、司と隣り合う自分たちの姿を鏡の中に認めていた。

 自由が丘の寝室では、夫と別々の部屋で眠る冷え切った夜しかない。それに比べ、今選んでいる品々は、すべてが司の体温を想起させるものばかりだった。さらに司は食器売り場で足を止め、白磁に繊細な金彩が施されたペアのティーカップを手に取った。

「これ、おそろいで使いましょう。優子さんが僕の部屋に来たとき、楽しいティータイムを過ごせるように」

 司のマンションを他の女が訪ねることもあるだろう。しかし、司とのお揃いのカップがあれば、そうした女たちへの強烈な牽制になる。その特別感が、優子の理性をさらに麻痺させていった。

 選んだ家具が届けば、優子が「妻」「母」「家政婦」という拘束具を脱ぎ捨て、自由な女として新居に招かれる日々が始まる。

 それは、優子が司の「淫らな被験体」となる日へのカウントダウンでもあった。

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