マカオの夜景を一望できる、高級ホテルのスイートルーム。
私は窓辺に立ち、クリスタルで作られたシャンデリアの輝きに目を細めていました。
身に纏っているのは、サンローランのイブニングドレス。
太腿のスリットからは、昨日刻まれたばかりの『椿と鬼』のタトゥーが、歩くたびにチラリと覗きます。
「……失礼します」
重厚な扉が開き、今夜の「お相手」が入ってきました。
この地で事業を展開しているという日本人男性です。
小太りで、見るからに温厚そうな初老の紳士でした。
私はまだ現地の言葉が話せません。
そのため、鬼灯様は最初の客として、言葉の通じる日本人を選んだのです。
「おお……なんと美しい。写真で見るよりずっと素晴らしい」
彼は私を見るなり、うっとりと溜息を漏らしました。
私はドレスの裾を摘み、鬼灯様に叩き込まれた通りの挨拶を、流暢に紡ぎました。
「はじめまして。Mと申します」
一度言葉を切り、潤んだ瞳で上目遣いに彼を見つめます。
「調教師の鬼灯様に愛ある調教をしていただき、新たな自分に目覚めてこの道に踏み入れました。『格付検査』でも『Ultimate Premium(究極品)』の『牝豚』として認定していただいております」
男の喉がゴクリと鳴るのを確認し、私は艶然と微笑みました。
「その誇りにかけて、今宵は貴方様の淫らな夢を全て叶え、大満足してお帰りいただけるよう、誠心誠意ご奉仕させていただきます」
完璧な口上。
かつて名家の妻として培った品位が、今では自分を高く売るための媚態として機能していました。
「素晴らしい……! 君のような女性にお相手していただけるとは、私はなんと幸運なんだ!」
彼は私の手を取り、恭しくキスしました。
キングサイズのベッドへと誘われ、優しくドレスを脱がされます。
ラペルラのランジェリーが露わになると、彼は興奮したように鼻息を荒くしました。
けれど、その手つきはどこまでも丁寧でした。
壊れ物を扱うようにブラジャーのホックを外し、露わになった乳房をまるで聖遺物でも崇めるかのように掌で包み込みます。
「ああ、なんて柔らかいんだ……」
「……恐れ入ります」
乳首には深紅のルビーがついたピアスが揺れています。
彼はそのピアスごと、甘噛みするように優しく吸い付きました。
チュパ、チュ、と愛おしむような音。
痛くない。怖くない。
……なのに。
(……何も、感じない)
私は天井を見つめながら、冷え切った思考でそう感じていました。
彼の舌は温かいはずなのに、まるでゴムベラで撫でられているかのように無機質です。
私の脳裏をよぎるのは、鬼灯様の冷酷な指先や、容赦なく突き立てられるニードルの痛み。
あの日々の強烈な刺激に比べれば、この優しい愛撫は「無」に等しいものでした。
やがて、彼がベッドサイドに手を伸ばしました。
カサリ、と乾いた音がします。
銀色の小袋を破る音――コンドームです。
「……!」
私は思わず眉をひそめそうになりました。
ゴムなんて。
私はピルを服用しています。
病気の心配などしていません。
何より、ゴム越しでは餌を貰えないではありませんか。
直接、子宮の奥に熱いものを注がれなければ、私の飢えは満たされないのに。
「準備はいいかい?」
「……はい。つつしんで、お受けいたします」
不満を押し殺し、私は能動的に腰を揺らしました。
挿入の瞬間、違和感が走ります。
ゴム特有の無機質な摩擦。
潤いが足りず、乾いた粘膜がゴムの油だけで無理やり擦れる不快な感触。
私の体は、これほど丁寧に愛撫されたにも関わらず、一滴の蜜も分泌していなかったのです。
「大丈夫かい? 痛くないかい?」
「……いいえ、問題ございません。とても……心地よいです」
嘘です。苦痛と退屈しかありません。
もっと乱暴にして。
髪を掴んで、罵って、生のまま奥まで突き上げて。
そう叫び出したい衝動を必死に抑え込み、私はただ機械的に、礼儀正しく腰を使い続けました。
「おおっ、すごい……! 中が、生きているみたいだ……!」
彼は私の技術(ギミック)に翻弄され、すぐに絶頂を迎えました。
ドクドクと脈打つ動きが伝わってきます。
しかし、ゴムという薄い膜一枚のせいで、私にはその熱さが届きません。
ただの排泄行為。
私の中には何も残らない、虚しいピストン。
(ああ……足りない。お腹が空いたまま……)
事後、彼は満足げに息をつき、サイドテーブルから分厚い封筒を取り出しました。
約束の対価です。
「取っておきたまえ。素晴らしいサービスだった」
「……ありがとうございます」
私はシーツに正座し、封筒を恭しく受け取りました。
ずしりとした重み。
中には高額な紙幣が入っているはずです。
かつての私の小遣いなど比較にならないほどの大金。
けれど、私の心は冷え切っていました。
つまらない普通のセックス。
手元に残ったのはこの紙切れだけ。
私の身体が欲していた「熱い餌」は、ゴムの中に閉じ込められてゴミ箱に捨てられてしまったのですから。
自分でも驚くことに、私の心はそうした「飢えと乾き」で独占されていました。
初めて身体を売って、大金をいただいたにもかかわらず、罪の意識や「堕ちた」という実感を感じることは、全くなかったのです。
「では、また会おう」
「本日はご利用いただき、誠にありがとうございました」
私はベッドの上で、深々と頭を下げました。
ドアが閉まり、足音が遠ざかるまで、私は動く人形のようにその姿勢を崩しませんでした。
「またの御指名を」なんて、口が裂けても言えませんでした。
こんな生ぬるい地獄は、もう二度とごめんです。
数時間後。
客が去った後の部屋に、静かな足音が響きました。
鬼灯様です。
「終わったか」
「はい、御主人様」
私はバスローブ姿で跪き、床に頭を擦り付けました。
「どうだった? 優しい客だっただろう」
「……はい。とても、紳士的な方でした」
「それで? お前は感じたか?」
試すような問いかけに、私は激しく首を横に振りました。
「……いいえ。……何も。……苦痛と、退屈だけでした」
「そうだろうな」
「はい……私はもう、普通のセックスでは感じないようです。御主人様の暴力と、熱い餌《ザーメン》でなければ……悦びを感じられない身体になってしまいました……」
涙ながらに告白すると、頭上からふっ、と笑う気配がしました。
顔を上げると、鬼灯様は初めて見る満ち足りた笑みを浮かべていました。
「それでなければならない、それでこそ俺が躾けた牝豚の証だ」
彼は私の顎を掴み、乱暴に唇を奪いました。
舌を噛み切るような激しい口づけ。
鉄の味が広がり、その痛みで私の下腹部が酷く甘く疼きました。
「普通の男で満足するようなら、ここで処分するつもりだった。だが、お前は期待通り、普通に戻れない所まで堕ちてくれたようだな」
珍しくそれだけで満足なさった鬼灯様は、私にとって天地がひっくり返るほどの衝撃的な言葉を紡ぎます。
「俺は日本へ戻る、他の仕事が待っているからな」
「えっ……!?」
愕然として鬼灯様を見上げました。
置いていかれる。
最高の餌を与えてくれる唯一の御主人様がいなくなってしまう……!?
「嫌です! 御主人様、置いていかないでください! 寂しくて死んでしまいます!」
「甘えるな。俺はお前のために、金と時間と労力をたっぷりかけて躾けてやった。今度はお前がその借りを返す番だ。ここで俺のためにたっぷり稼いで、俺にとってのお前の価値を証明しろ」
「そんな……!」
私の思考と感情は散々に乱れて鬼灯様をお引止めする言葉を紡げません。
ご指摘なさったことももっともです。
私は涙が零れ落ちそうな瞳で、鬼灯様をただただじっと見つめ続けました。
「そんな顔をするな」
鬼灯様は懐から新しいスマートフォンを取り出して私に放りました。
「お前の『管理』はこれから主に位置情報入りのその端末で行う。俺がお前の性癖を満たす客を選び続けてやる。仕事を終えたらそれで毎日必ず俺に連絡をしろ。命令だ」
「えっ?」
「それに勘違いしているようだが、俺と一生会えなくなるわけではない。俺は毎月の月末、ここに戻ってきてお前の状態を確かめたっぷりと『定期接種』をしてやる。俺はこれからもずっとお前の御主人様であり続ける」
月に一度。
その言葉は、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように輝いて見えました。
ずっとお前の御主人様であり続ける、この言葉が私の動揺を鎮静化させました。
毎日必ず俺に連絡をしろ、これはつまり毎日お話してやるという鬼灯様の御慈悲です。
「はい……! お待ちしています……! いい子で待っていますから……!」
でも鬼灯様は冷たく笑い、こんなことを言って私を突き放そうとします。
「だが甘えるな。仕事に手抜きがあり、そのタトゥーを汚すようなことがあれば、二度と俺と会うことはないと思え。その代わり、お前が俺のためにたっぷり稼いでくれるなら、月末の俺の滞在が数日伸びるかもしれんな」
「お任せください、御主人様!いただいた名誉に恥じない働きで必ず恩返しいたします!」
「良い顔だ。その言葉、忘れるな。期待している」
部屋を出て行く鬼灯様の背中を、私は祈るように見送りました。
去り際に振り返り、これから具体的にどうしていけばいいのか途方に暮れる私に救いを提示しました。
「言い忘れていたが、これからはウェイロンをお前のサポートにつけてやる。奴はここでの生活に詳しい。せいぜいこき使ってやれ」
「ありがとうございます、御主人様!すぐに再開できることを心から願っております」
躾けられたとおり、背筋を伸ばし、ドレスの裾を摘んで優雅なカーテシーをして鬼灯様を見送りました。
一か月後の再開を確信して。
こうして、私のマカオでの孤独で華やかな娼婦生活が幕を開けました。
すべては鬼灯様の御心のままに。
これからも鬼灯様からの熱い餌《ザーメン》の定期接種という、極上の快楽を味わい続けさせていただくために。