渓谷へ向かうバスを降りると、日中でも山の空気は刃物のように冷え切っていた。まだ十一月なのに、真冬のように寒い日だ。凍てついた北からの強風が僕の歩みを邪魔してくる。
色褪せた木々が揺れ、枯れ葉が耳障りな乾いた音を立てている。11月の中旬。僕はひとり、記憶の中にある山道を登っていた。
大学生時代に捨てた場所。捨てた父。忌まわしい記憶の墓場。一歩進むごとに、胃の奥から鉛のように重たい感情がせり上がってくる。
目の前に古びた日本家屋が現れた。 黒光りする柱、苔むした石段。記憶の中の風景と何も変わっていない。ただ唯一、綺麗に手入れがされている点だけが違っている。几帳面な紗英さんが来るたびに掃除してくれているのだろう。ズキリと胸が痛む。紗夜さんとの関係への嫉妬……それと、今も消えぬ父への憎しみで。
僕には、産みの母の記憶がほとんどない。 物心ついた時には、母はもういなかった。父・鬼灯の冷酷さと、家庭を顧みない狂気に耐えきれず、幼い僕を置いて逃げ出したのだと後に知った。
その代わり、僕が四つの時にこの家にやってきたのが義母(かあ)さんだった。
最初は憎かった。 父の緊縛に魅入られ、夫と小さい娘を捨てて父の元へ転がりこんできた人妻。僕の生みの母親を追い出した元凶。幼い僕は彼女を無視し、時には石を投げつけさえした。
でも彼女は怒らなかった。石があたった傷の手当てもしないまま、ただ悲しそうに微笑んで、僕を抱きしめた。
「ごめんね、紫苑ちゃん。寂しい思いをさせて、ごめんね……」
その腕は温かく、微かに花の香りがした。彼女は僕に惜しみない愛情を注いでくれた。 父が機嫌を損ね、僕に手を上げそうになると、いつも身を挺して庇ってくれた。
「この子は悪くないわ。怒るなら私を縛って」
そう言って父の前に立ちふさがる背中は、細くて華奢なのに、どんな壁よりも頼もしく見えた。
いつしか彼女は、幼い僕の「本当のお母さん」になっていた。 この冷たく薄暗い古民家の中で、彼女の笑顔だけが唯一の救いであり、太陽だった。だが、その幸福は長くは続かなかった。
義母(かあ)さんが来て二年が経った頃、彼女は病に倒れた。 日に日に痩せ細っていく義母(かあ)さんを、父は毎晩のように縛り続けた。
苦しそうな咳。きしむ床の音。そして父の荒い息遣い。 襖の隙間から見た光景を、僕は忘れることができない。
骸(むくろ)のように痩せた義母(かあ)さんの白い肌に、緋色の縄が生き物のように食い込んでいた。それはまるで、彼女に残された僅かな生命力を、父が縄を通じて吸い上げているかのように見えた。
そして十九年前の冬。義母(かあ)さんは死んだ。 動かなくなった彼女の遺体にすがりつき、獣のような唸り声を上げて泣き叫ぶ父の姿があった。 その時、六歳だった僕は悟ったのだ。
(親父が殺したんだ)
あんなに優しかった継母さんを。僕の大切な人を。 親父のあの縄が、彼女を絞め殺したんだ。自分の芸術とやらの生贄にしたんだ。
高校生になった頃だったろうか?「あれはあの女が望んだ縄だ」と父から聞かされた。義母(かあ)さんが僕を大事にしてくれた理由も「置いてきた娘の代わりだったのだろう」と。思春期の反抗期まっさかりの僕にとって、それは父の言い訳に聞こえたし、継母(はは)の愛を冒涜しているように感じられた。
「……ッ」
蘇る記憶に、強く唇を噛み締める。口の中に鉄錆の味が広がる。
あれから十九年。 今、父の部屋には紗英さんが通っている。 彼女の身体に残された幾何学的な痣。継母(かあ)さんの肌に残っていたものと同じ、父の刻印だ。
紗英さんの中に、僕は継母(かあ)さんの面影を見ているのかもしれない。だからこそ、繰り返させるわけにはいかない。 親父が死ぬのは当然の酬いだ。だが、道連れに紗英さんの心まで持っていかせるわけにはいかない。
「紗英の心は、俺が引き留める!」
北風で冷え切った頬を両手で叩いて気合を入れる。拳を握りしめ、重厚な引き戸の前に立つ。意を決して、引き戸に手をかける。ズズズ、と重い音が響く。
7年の時を超え、俺は再び父の領域へと足を踏み入れた。
*
土間の空気は変わっていない。古い木材の匂い。染みついた線香の香り。鼻腔を刺激する、煮なめされた麻縄の匂い。
囲炉裏の前に人影があった。 赤々と燃える炭火が、一人の老人の顔を照らし出している。僕の実の父親。そして、僕から二人の母を奪い、今、恋人の心を掴んだまま逝こうとしている「ライバルの男」。
「……待ちくたびれたぞ」
低い声が響く。 ゆっくりとこちらを向いた男を見て、僕は息を呑んだ。小さい。記憶の中の父は、恐怖そのもののように巨大だった。
だが、今の彼は、ひと回り以上も縮んで見えた。頬はこけ落ち、作務衣から覗く手首は枯れ木のように細い。病魔は確実にこの男の肉体を蝕んでいた。死の影が濃い。
瞳だけは異様だった。窪んだ眼窩の奥で二つの鬼火が燃えている。射抜かれるような眼光だけは全盛期以上に鋭さを増している。生命の炎が消える前の、最後の煌めきに感じられた。
「もっと早く来ると思っていたのだがな……弱虫なのは変わらずか」
嘲るような、それでいてどこか懐かしむような響き。
「あんたこそ、随分小さくなったな。子供に還ったのかと思ったぜ」
抑え込んでいた憎しみが滲み出る。しかし、今日は親父を罵倒しにきたのでも、病に犯された身体を因果応報だと嘲笑しにきたのでもない。自分に強く言い聞かせる。紗英を救うためだ。抑えろ!
「親……父」
数年ぶりのその呼称は、喉に魚の骨が引っかかっているような言い難さだった。艶めかしい紗英の肌と、悲しそうな瞳がフラッシュバックする。過去に、憎しみに囚われている場合ではなかった。ずかずかと畳の上に上がり込み、痩せ衰えた父の対面に胡坐をかいて座った。
「あんたが死んだあと、紗英さんが後追いしかねない」
単刀直入に切り出した。 父の眉がぴくりと動いた。その瞳が俺を値踏みするように細められた。
「俺にあんたの縄を教えろ」
腹の底から声を絞り出す。
「俺の縄で彼女をこっちの世界に縛りつける」
親父を睨みつけて言い切ると、頭を深々と下げた。
静寂が落ちた。 炭が爆ぜる音だけが、パチリと響く。 永遠にも思える沈黙の後。
「……ふん、生意気な口を利くようになったな。少しは成長したか」
頭上から声が聞こえた。頭を上げると、父が立ち上がっていた。父は無言のまま俺を見つめ続けた。その視線が肌を焼くようだ。俺もまた、紗英を救うことだけを考え、無言で見つめ続けた。
やがて父の薄い唇が歪んだ。それは悔恨であり、同時に微かな歓喜のようにも見えた。
「いいだろう。俺の命が尽きるまでに、残る全てを叩き込んでやる。今度は逃げるなよ」
ふらつきが止まっていた。痩せ衰えた身体が全盛期に戻ったような覇気を纏っていた。
父が愛用の麻縄を放り投げてきた。俺はそれを両手で受け止めた。ずしりと重い。 これは単なる道具ではない。父が背負ってきた「業(ごう)」そのものだ。かつて母を遠ざけ、可愛がってくれた義母の命を吸い取ったように見えていた、緋色の縄。
俺はそれを突き返した。父の眉がピクリと動く。
「その縄は親父の縄だ。それを使っては意味がない。俺はその縄を超える、俺の縄を、紗英にとって最高の縄を作ることから始める」
「……ほう」
「来週からよろしく頼む。紗英には俺から話しておく」
返事を待たずに立ち上がり、部屋を後にする。
「……もってあと1年。励めよ」
背中から声が聞こえた。意外なことに動揺する自分がいた。無言のまま家を出て帰路についた。日は陰ってきていたが、強い北風は止んでいた。
この日、俺は父の業を継ぐ契約を交わした。憎い父に頭を下げてでも、愛する紗英を自分の縄で縛り、この世に、俺の隣にしっかりと繋ぎ止めるために。
覚悟は決まった。勝負はこの1年。やり直しは効かない。