十月の中旬。 秋の深まりとともに、僕たちの関係はますます深まっていた。
土曜日の正午。僕は中野にある紗英さんのマンションを訪れていた。今日はネット通販で購入したという大型の本棚を組み立てる約束をしていたのだ。
「いらっしゃい、紫苑くん。まずはお昼にしましょう」
花柄の可愛いエプロン姿の紗英さんが出迎えてくれた。
テーブルに並べられたのは、黄色い卵が鮮やかなオムライスだった。ふわりと漂うバターの香り。何より僕の目を奪ったのは、中央にケチャップで描かれた可愛らしいハートマークだった。
「……すごい。これ、僕のために?」
「ふふ、柄じゃなかったかしら」
「いいえ! すごく嬉しいです」
僕は尻尾を振る犬のような心持ちで、スプーンを口に運んだ。とろとろの卵とチキンライスの味が口いっぱいに広がる。まるで新婚生活みたいだった。そうなる未来を実現しようと本気で考えることにした。
食事を済ませると、のんびりするのは後にして早速、作業に取り掛かる。届いた段ボールを開梱し、電動ドライバーを片手に組み立てていく。父譲りの無骨な手が、こういう時こそ役に立つ。
完成した新しい本棚を壁際の古いものと交換し抜いてあった本を相談しながら並べる。古い本棚を解体し、一階にある共用ゴミ置き場まで運ぶ。全ての作業を終えた頃には、時計の針は十五時を回っていた。
「お疲れ様。ありがとう。すごく助かったわ」
紗英さんが淹れてくれた紅茶と、僕が買ってきたモンブランでティータイム。 労働の後の甘いものは格別だった。 西日が差し込むリビングで、僕たちはとりとめのない雑談に花を咲かせた。
「この紅茶、とても美味しいですね!紗英さんは珈琲より紅茶派なんですか?」
「そうね。紅茶にはこだわっているつもり。今日のお茶はフォートナム&メイソンという、イギリス王室御用達ブランドのストレートティーよ。紫苑君は?」
「僕は珈琲や紅茶も飲みますが、一番好きなのは炭酸飲料ですね。子供舌なので」
「そうみたいね。好物もオムライスだし」
「覚えていてくれたんですね、嬉しいな」
「恋人同士なのだから、当たり前でしょう?私の好みも覚えてね」
「もちろんです!紅茶と……あと恋愛小説が好きなこと、頭に叩き込んでおきます」
「タイトル、見たのね?それは恥ずかしいから、忘れてくれて構わないわ」
「えー、乙女で可愛いじゃないですか。そんなこと言わずに、男性の僕でも楽しめそうな恋愛もの、紹介してください。読んでみますから」
「本当?そうね……」
穏やかな時間はあっという間に過ぎ、時計は十六時を示した。 時計を見た紗英さんが、申し訳無さそうな顔をする。
「……ごめんね、そろそろ出かけなきゃ」
彼女は毎週土曜の夕方から親戚の家へ介護で泊まりに行く。
「うん、分かってる。着替える間、洗い物をしておくよ」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと待っていてね」
彼女は寝室にあるクローゼットの扉に手をかけた。
その時だった。 開かれた扉の奥から、ふわりと独特の香りが漂ってきた。防虫剤の樟脳ではない。もっと土着的で、古い寺院のような、あるいは乾燥した植物の匂い。 匂いの方向に目を向けると、僕の視界に、整然と並ぶブラウスやコートの列に混じって異質なものが飛び込んできた。 ハンガーパイプに吊るされた、とぐろを巻く蛇のような物体。 鮮烈な緋色に染め上げられた麻縄だった。
心臓が早鐘を打つ。 無造作に放り込まれていたのではない。風通しの良い場所に、S字フックを使って丁寧に吊るされていた。 湿気を嫌う麻縄の管理方法として理にかなっている。素人の保管ではない。誰か本職の人間に入れ知恵されている証拠だ。
何より、その色は見間違えようがない。 親父独特の染め。 幼い頃、実家で何度も見た色。父がこだわり抜いて染め上げていた、「緋」の色だ。
「……紫苑くん?」
僕が固まっているのに気づき、着替えを取り出した彼女が不思議そうに振り返る。 とっさに視線を逸らし、引きつった笑顔を貼り付けた。
「あ、いや……なんでもないです。服、たくさんあるんだなって」
嘘だ。問い詰めたい。その縄はなんだと叫びたい。 だが、今ここでそれを口にすれば彼女との関係が終わってしまうような予感がして、その言葉を飲み込んだ。
中野駅までの道のりは会話が弾まなかった。 改札の前で彼女は眉を下げた。
「ごめんね、せっかくの休みなのに。紫苑くんは三鷹よね? 一緒の電車で……」
「あ、いや。僕はちょっと新宿に用事があるから、反対方向に乗るよ」
僕は嘘をついた。彼女と同じ下り電車に乗れば、途中の三鷹で降りることになる。だが今は、一秒でも早く一人になりたかった。
「そう。じゃあ、気をつけてね」
彼女は中央線の下り電車――立川・青梅方面へ向かうオレンジ色の電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、電車が動き出す。窓越しに見える彼女が小さく手を振り返してくれた。その笑顔が残酷なほど眩しい。 車両がホームを滑り出し、やがて完全に見えなくなる。
ガタン、ゴトン……と遠ざかる走行音が消えたとき。
「う、っ……」
胃の奥から熱いものがこみ上げた。 我慢できずにホームの柱の影にしゃがみこむ。 雑踏を行き交う人々が怪訝な顔で僕を避けていく。 吐き気と冷や汗が止まらない。あの縄の緋色が網膜に焼き付いて離れない。 あの匂いが鼻腔にこびりついている。 あれは、父の縄だ。
翌週の仕事は地獄だった。 デスクで彼女の姿を見るたびに、あの緋色の縄が脳裏をよぎる。 几帳面に吊るされた縄。 それは彼女が、あの縄を大切に扱っていることを意味していた。まるで縄そのものに、愛しい人の魂が宿っているかのように。
(ほんとうに、親父なのか?)
絶縁したはずの父。伝説の緊縛師、鬼灯。 彼女は僕に抱かれながら、本当は誰を見ている? 身体に残る幾何学的な痣は、父が刻んだものなのか? 疑惑という名の澱が、僕の心を黒く塗りつぶしていく。
彼女からの誘いを体調が良くないからと断り、一週間ずっと悩み続けた。
そして疑惑の土曜日。僕は彼女を尾行する決意を固めていた。
*
夕方の中野駅。 人混みに紛れて彼女の後を追う。 彼女が乗ったのは、やはり中央線の下り電車だった。 立川で青梅線に乗り換える。 車窓の景色からビル群が消え、次第に緑が濃くなっていく。僕がかつて捨てて逃げ出した、忌まわしい故郷の風景が近づいてくる。 終点で降りた彼女は、慣れた足取りでバスに乗り込んだ。 間違いない。 彼女が向かっているのは、渓谷にある古民家――僕の実家だ。
バスを降りると、山の空気は冷え切っていた。 時刻は十七時を回り、辺りは「逢魔が時」独特の薄紫色に染まり始めている。 燃えるような紅葉が、夕闇に沈みゆく山肌を血の色に染めていた。
夏の間響いていた蝉時雨はもうない。川のせせらぎと草むらから聞こえる秋の虫の声が、静寂を際立たせていた。
その道を彼女が歩いていく。 先にあるのは、古い門構えの日本家屋。変わっていない。ただ、過ぎ去った年月を感じた。
彼女が引き戸に手をかけようとした、その時。
「紗英さん!」
僕は耐えられずに茂みから飛び出して、彼女の腕を掴んでいた。
「……っ!?」
彼女が短く悲鳴を上げて振り返る。 僕の顔を確認した瞬間、彼女の瞳が見開かれ、血の気が引いていくのが分かった。
「し、紫苑くん……どうして、ここに」
「話を聞かせてください」
僕は彼女の腕を引いた。家の前では父に気づかれる。 呆然とする彼女を強引に引き連れて、近くの川べりへと移動した。
*
薄暗い河原。 黒々と流れる川面を背に、僕は彼女と対峙した。
「あそこに住んでいるのは、鬼灯という緊縛師でしょう」
僕の問いに、彼女は観念したように俯いた。
「……知っていたのね。そうよ。私は週末、あの人に会いに行っているの」
「どういう関係なんですか」
「ただの縛り手と受け手の関係よ。私はあの人の縄が好きなの。それだけ」
嘘だ。 それだけの関係なら、あんなに大切に縄をクローゼットに吊るすはずがない。毎週、こんなところまで通い詰めるはずがない。あんなに愛おしそうに、あの家に入ろうとするはずがない。しかも、僕という恋人に隠して……。
「違う!」
僕は声を荒げた。 そして、自分でも認めたくない真実を、決定的なカードとして切った。
「あそこにいるのは、俺の親父だ」
時間が止まったようだった。 虫の音さえ消え失せたような静寂の中、彼女が呆然と僕を凝視した。
「……え?」
「鬼灯は、俺の実の父親なんだ。俺が大学の時に捨てて逃げ出した、父親なんだよ」
「うそ……」
彼女の唇がわなないた。 膝から力が抜けたように、その場に崩れ落ちる。
「嘘じゃない。あの縄の染め方、撚り方、匂い……全部、俺の記憶にあるものと同じだ」
僕は彼女の前に膝をつき、肩を掴んだ。
「答えてください。親父と、どういう関係なんですか。僕と付き合っていながら、どうして」
「……違うの」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「肉体関係はないわ。本当に、ないの」
「じゃあ、なんで!」
「あの人の縄だけが……鬼灯さんの縄だけが、私の心の穴を埋めてくれるの」
彼女は子供のように泣きじゃくりながら、僕の胸を叩いた。
「あなたには分からないでしょうけど、私にはあのひとの縄が必要なの。あの苦しみと安らぎがないと、私は私でいられないのよ」
彼女の慟哭が夕闇の河原に響く。 それは僕に向けられた言葉ではなかった。 彼女の魂はここにはない。 僕がいくら身体を重ね、快楽を与えても、彼女の核にある空洞を満たしていたのは父の縄だったのだ。 僕は彼女の身体の所有者になれても、心の所有者にはなれていなかった。
「……それに」
彼女は震える声で続けた。
「あの人は、もう長くないの」
「……え?」
「肺の病気で……余命はあと僅かなの。だから、私は最後まで」
頭を殴られたような衝撃だった。 親父が、死ぬ? あの強権的で、絶対的な支配者だった父が? 言葉を失った僕は、泣き崩れる彼女をただ抱きしめることしかできなかった。腕の中で震える彼女の背中は、ひどく小さく、弱弱しかった。
逢魔が時を過ぎ、闇が僕たちを容赦なく飲み込んでいく。気がついたとき、僕はひとり、孤独に覆われながら、暗い川べりに呆然と佇んでいた。