第1話:血のクリスマスの契約

 5年の月日が流れた。

 12月24日。
 表参道のイタリアンレストランは、予約客の熱気と甘い香水、そしてローストチキンの香りに包まれていた。
 窓の外では、街路樹のイルミネーションがシャンパングラスの中で弾ける泡のように煌めいている。

「結愛、メリークリスマス」
「うん。乾杯、奏多」

 カチン、と薄いグラスが触れ合う音が鳴る。
 二十歳になって初めて迎えるクリスマス。
 赤ワインの渋みが、少し背伸びをした大人の夜を演出していた。

 目の前に座る奏多は、大学一年生の時に知り合い、付き合って一年になる同級生だ。
 育ちが良く、誠実で、私を大切にしてくれる完璧な彼氏。
  今日も、私のために何ヶ月も前からこの店を予約してくれていた。

「このワイン、飲みやすいね」
「結愛、大丈夫? 酔ってない? 」
「平気だよ。まだ二杯目だもん」

 私は微笑んでワインを口に含んだ。
  嘘だ。
 本当は、アルコールが回るにつれて私の頭は冷え切っていくようだった。

 奏多の手が、テーブルの上で私の手に重なる。
 温かくて、乾燥した、健康的な体温。
 けれどもその温もりが伝わってくるたびに、私の肌は違和感に粟立ってしまう。

(……違う。私が求めている温度は、これじゃない)

 脳裏に浮かぶのは、消毒液の匂いと、冷ややかな指先。
 かつて神様と崇め、今は遠く離れてしまった義兄・伊織の記憶がワインの酔いを醒ましていく。

 奏多のことは好きだ。
 人として尊敬しているし、一緒にいて安心する。
 それなのに、彼とキスをしても、抱きしめられても、身体の奥底が震えるような感覚は一度もなかった。

「……ねえ、結愛。今日は、この後……」
 奏多が少し顔を赤くして、核心に触れようとした時だった。

 ブーッ、ブーッ。
 テーブルの上のスマホが、無粋な振動音を立てた。
 画面には『母』の文字。
 こんな時間に珍しい。
 嫌な予感が背筋を駆け上がり、私はとっさに通話ボタンを押した。

『もしもし? あ、結愛!? 大変なの、落ち着いて聞いて……!』
 母の悲鳴に近い声が、レストランのBGMを切り裂いた。

『伊織さんが……伊織さんが、刺されたの!』

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
 刺された? 誰が?
 あの理性的で、誰よりも優秀な伊織お義兄様が?

「……嘘、でしょ? 命は……お義兄様は生きてるの!?」
『 命に別状はないみたいだけど、出血が酷くて……今、警察病院に搬送されたって…』

 ガタッ、と椅子を蹴って立ち上がった。

「私、行く」
「え? 結愛、どうしたんだよ」

 驚く奏多を置いて、私はコートをひったくった。

「ごめん、奏多。お義兄様が刺されたって……だから、行かなきゃ!」
「え……ま、待てよ! 俺も行く。一人じゃ心配だし」  
「来ないで!!」

 自分でも驚くほど鋭い声が出た。
 店中の視線が集まる。
 奏多が傷ついたように目を見開くのが見えたが、今の私には構っている余裕などなかった。
 あの気高いお義兄様が、傷つき、弱っている姿を、他の男になんて絶対に見せたくない。

 「……ごめん。今日は、もう無理」

 私は一万円札をテーブルに叩きつけるように置くと、振り返りもせずに店を飛び出した。
 寒空の下、ヒールでアスファルトを蹴って走る。
 聖なる夜の輝きなんて、もう私の目には映っていなかった。

 深夜の病室。
 警察の事情聴取が終わり、ようやく面会が許された個室には、重苦しい静寂が満ちていた。
 ピー、ピー、という電子音だけが規則正しく響いている。

 ……お義兄様。

 ベッドに横たわるお義兄様は、私が記憶している神様の姿とはかけ離れていた。
 顔色は蝋のように白く、頬はこけ、無精髭が生えている。
 包帯が巻かれた左脇腹には、血が滲んでいた。
 29歳。
 医師としてのキャリアを順調に積み、いよいよこれからという時期。
 それなのに、今の彼は抜け殻のようだった。

 ゆっくりと、お義兄様の瞼が開いた。
 その瞳は5年前の優しかった光を失い、濁った沼のように暗く淀んでいた。

「……結愛、か。……ふっ、久しぶりだな」

 彼は私を見ると、自嘲気味に口角を歪めた。

「クリスマスの夜に、刺された男を見舞いか? ……その服装だと、彼氏とのデートを放り出してきたってところか、物好きなことだ」
「そんなこと言わないで……! 酷い怪我だって聞いて……」
「ああ、死にぞこないだ……刺したのは、付き合っていた女の一人だよ」

 淡々とした口調で語られる事実は、あまりにも生々しかった。
 姉・紗香との泥沼離婚の後、お義兄様が自暴自棄になり、手当たり次第に女性と関係を持っているという噂は聞いていた。
 でも、まさか刺されるなんて!

「私だけを見て、だとさ。馬鹿げてる。……女なんて、気持ち良いセックスができれば、すぐに俺を好きになるんだろう? 愛だの恋だの、そんなものは脳内麻薬が見せる幻想に過ぎない」

 その言葉は、鋭利な刃物のように私の胸を抉った。
 かつて私に本を貸し、優しく頭を撫でてくれた人の口から、愛なんてないと言われることの絶望。
  姉の裏切りが、彼をここまで壊してしまったのだ。

「そんなこと、ないよ……! 世の中には、身体だけじゃなくて、心で繋がれる関係だってある。私が……私が証明する!」

 感情のままに叫んでいた。
 お義兄様は冷めた目で私を見つめ、鼻で笑った。

「口で言うのは簡単だ。偽善者のセリフだな」
「偽善じゃない!」
「なら、行動で示してみろ。俺を刺した女も、俺を裏切った姉の紗香も、今ごろ別の男と笑っている。女には不信感しかない」

 彼は天井を仰ぎ、独り言のように呟いた。
「壊れた俺の心を、誰が癒やしてくれるんだ? 別に、このまま傷口が開いて死んでも構わない」

 死んでも構わない。
 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。

 この人を死なせてはいけない。
 私が守らなければ。
 かつて彼が、私を守ってくれたように。

 私はベッドに歩み寄り、点滴の管が繋がれた冷たい手を両手で包み込んだ。

「私がお義兄様を癒します」
「……は?」
「身体より心が大事な女性もいるって、私が証明してみせる。だから……死ぬなんて言わないで」

 お義兄様の瞳が、すうっと細められた。
 彼は私の手を握り返すことはせず、値踏みするように私の身体を――胸の膨らみから腰のラインまでを視線で撫で回した。

 その粘着質な視線に、背筋がゾクリと震える。
 恐怖ではない。
 得体の知れない熱が、下腹部に灯る感覚。

「……面白い。そこまで言うなら、賭けをするか?」
「賭け……?」
「ああ。期間は三年。お前の姉が、俺を裏切って不倫していた期間と同じだ」

 お義兄様は私の手首を掴み、強引に引き寄せた。
 消毒液と微かな血の匂い。
 男の匂いが鼻腔を満たす。

「俺の心が癒えるまで、お前がその身体を使って俺を治療しろ」
「か、身体……?」
「その間、彼とはプラトニックな関係を続けるんだ」
「……どういうことですか?」
「身体より心の関係が大事なら、結愛は俺のことなど好きにならず、彼との関係を何の問題もなく続けられるはずだ。それを証明して欲しいんだよ」
「……そんな……無理です」
「なんだ、やっぱり口だけか? 」
「……その賭けに乗ったら、女の人たちと遊ぶのをやめて、ちゃんとした生活に戻ってくれますか?」
「ああ、3年後ではなく、結愛が賭けに乗った瞬間からな」

――それで、お義兄さんが元の生活に……私の神様に戻ってくれるなら……でも

「わかりました。でも、一つだけ条件をつけさせて」
「なんだ? 言ってみろ」
「私……その……まだ……し、処女なの……だから……」

 小声でぼそぼそと暴露すると、お義兄様はニヤリと、悪魔のような笑みを浮かべた。

「おもしろい……安心しろ。最後の一線は守らせてやる。挿入はなしだ。大事な彼氏とプラトニックな愛とやらを貫いてみせろ。それでいいな?」
「……はい」
 私は覚悟を決めて頷いた。

「いい度胸だ。ではこれでいいな?」
 お義兄様は私の耳元に唇を寄せ、低い声で整理した賭けの内容を囁いた。

「俺は、挿入以外のあらゆる手段で、お前の身体を開発し、可愛がってやる。3年後、お前が俺に心移りせず、彼氏とも清らかなままでいられたら、お前の勝ちだ。俺はお前との関係を清算し、女の愛を信じて、真面目な医者に戻ってやる」
「私が負けたら?」
「その時は……お前は一生、俺の慰み者だ。都合よく俺の性欲を満たす、な」

 心臓が早鐘を打つ。 これは、悪魔との契約だ。
 それでも私には断るという選択肢はなかった。
 今、彼を救えるのは、この世で私しかいないのだから。

「わかりました。その内容で大丈夫です」

 頷くと、お義兄様は満足げに目を細め、包帯の巻かれていない右手を私の首筋に這わせた。
「では、契約成立だ」

 冷たい指先にゾクゾクした。
 お義兄様への想いを未だに消せずにいた私にとって、甘美で背徳的な共犯関係の始まりだった。

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