プロローグ:ノア

 世界は、偽りの愛に満ちている。

 4月上旬。都心の夜景を見下ろすアトリエの窓辺で、僕は冷めたコーヒーを口に含んだ。眼下に広がる光の海。その一粒一粒に、欲望と、嘘と、ありふれた悲劇が詰まっている。20歳のまだ美大生だった頃、交通事故で両親を亡くし、孤独と使いきれないほどの遺産を手にしてから10年以上が過ぎた。その間、僕が学んだことは一つだけだ。  

――金と欲望の前では「愛」など無意味

 寄ってくる女たちは皆、同じ顔をしていた。僕を愛してると言いながらも目当ては僕の財産。最初は貞淑ぶっていても、札束を見せればすぐに股を開く。結婚してと言いながらも、僕が与えたお小遣いで、他の男に貢いでいる。僕の孤独を癒やす聖母のふりをして、経済的な支援を求めてくる。僕が金払いを渋ると捨てセリフを吐いて去っていく。

 そんな女たちを嫌悪しながらも、孤独を埋めるために、金に群がる女たちと乱れた生活を送り続けた。どこかに純粋な愛が隠れているのではないかと、あらゆるセックス、修羅場、人間の欲望を見尽くし、絶望して20代が終わった。

 今はセキュリティのしっかりしたタワーマンションの上階に住み、アトリエに引きこもって絵を描くだけの毎日だ。「純粋な愛」が与えられるのを待つのではなく、僕自身の手で描いてみたくて。

 職業を聞かれたら「画家」と答えてはいるものの、絵で食べていけているわけでは全くない。大学を卒業した後に、小さな画廊で個展を一度開いたきり。暇つぶしに絵を描いているだけの、何者でもない存在だ。

 だが、何度描いても思うような絵にならない。描いては破り、描いては破り続けたあげく、ここ最近は真っ白なキャンバスを前に、ずっと手が止まったまま。どうやら、今の僕の中にあるものだけでは「純粋な愛」を描くことはできないようだった。

 ため息をつきソファに身を沈めて、惰性でスマートフォンを操作する。Xのタイムラインには、今日も「偽りの愛」を提供する代わりに金銭を求める女たちや、純粋な愛を一方的に求める女たちの投稿で溢れている。
 『パパ活相手募集中』 『人妻でもよければ』『ご主人様募集』『愛されたい』 『飼われたい』。 どれもが陳腐で、コピー&ペーストされたような言葉の羅列。写真も似たり寄ったり。顔を背けて服装だけ。胸をはだけて谷間を強調。湯船に浸かって脚だけ。下着姿。露出多めなコスプレ。どれも特徴のない写真ばかりで、スクロールする指が止まることはない。

 そんな中、ふと、あるアイコンで指が止まった。

 虹青色の羽の蝶の写真。ハンドルネーム(HN)は「アゲハ」。 どうやらこの美しい蝶はアゲハ蝶の一種のようだ。興味を惹かれて調べてみる。

 オオルリアゲハ――羽の表は虹青色だが、裏は地味な黒と茶色の色合い。そのため、止まった時は周囲の色に溶け込む。一方、飛ぶときは表の羽が光を反射し、数百メートル先にも届く。

 プロフィールには『FJK/処女/彼氏募集』という初々しい文言が並んでいる。フォロワーも被フォロワーも一桁。開設ほやほやのようだ。DMも開けている。汚い欲望にまみれた男達が、砂糖に群がるアリのように殺到してくるのは時間の問題だ。  

 投稿もひとつだけ。『JKになったので始めてみました。よろしくお願いします』と書かれたポストに、制服のスカートの裾を少しだけはだけて、太ももを露出させた写真が添えられていた。きっと精一杯の勇気を振り絞ったのだろう 。スカートを握りしめる指先が、微かに白く強張っている。緊張と、不安と、期待に震えている指先だ。プロの画家を目指して多くの人の身体を観察してきた僕には、そう思えた。

 スマホから手を離し、目を閉じてもの思いに耽る。

 これまで僕に群がってきた、「偽りの愛」を囁く穢れた女たちとは違い、まだ何色にも染まっていなさそうなこの少女……無垢で未熟なこの少女は一体どのような蝶に「羽化」するのだろう? その過程に「純粋な愛」を理解する鍵が隠されている可能性はないか?……少なくとも何らかのヒントくらいはありそうだ。
 それならば、僕自身が積極的に介入し、その過程を一番近い場所からつぶさに観察することで「純粋な愛」を描けるようになるかもしれない。

 そう考えた僕は、しばらく絵から離れて、3年間にわたる壮大で残酷な実験・観察を開始することを決めた。

――僕があらゆる手段をつくして美しい蝶へと羽化させる
――それと同時に、あらゆる手段で無垢な肉体を汚し続ける
――その果てにある、彼女の中の僕への感情は何なのかを確かめる

 高校を卒業するとき、この少女は果たしてどんなアゲハ蝶に変貌(メタモルフォーゼ)しているのか?国内どこにでもいる白黒の「ナミアゲハ」か、それとも彼女が憧れる虹青色の「オオルリアゲハ」か。
 いや、僕のやり方次第では、現実には存在しない幻の「紫色のアゲハ」に羽化させることだって可能かもしれない。

 気持ちを固めたところでスマホを再び手にとる。久しぶりの興奮で、指先が熱い。画面の中の「アゲハ」に向けて、最初の一筆を入れるようにメッセージを打ち込んだ。
 
『アイコンの意味がわかったよ』

 送信ボタンを押す。 さあ、始めようか。偽りの愛で無垢な少女を汚し続ける実験を。

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