6月1日。待望の衣替えの日がやってきた。 日本の男子高校生にとって、この日はある種の「祝日」と言っても過言ではない。
重苦しい冬服から、軽やかな夏服へ。教室の色彩が一気に明るくなるこの日、俺、田中陽翔は登校して早々、言葉を失うことになった。
教室の窓際、いつもの席。 そこに、「涼やかな夏」が座っていた。
「……おはよう、一条さん」
「ええ、おはよう。田中くん」
一条華凜さんの夏服姿。それは暴力的なまでに美しかった。
伝統ある白のセーラー服。冬の重厚な紺色とは対照的に、眩しいほどの純白が、彼女の抜けるような白い肌と溶け合っている。襟と袖口には、気品ある濃紺のラインが三本。胸元にはシルクのようなスカーフが結ばれている。
何より俺の目を釘付けにしたのは、衣替えに合わせてアップにされた髪から覗く、無防備なうなじだった。ほっそりとした首筋から、セーラー服の襟の奥へと続く滑らかなライン。清楚なのに、艶めかしさを増している。
これがセーラー服の効果なのか? いや、他の女子達にはそんな効果が発揮されていない。窓から差し込む初夏の日差しを反射して、彼女の周りだけ空気が浄化されているように見えた。
(なんだこれ……。同じクラスメイトかよ。二次元から出てきたのか?)
周囲の男子たちも、チラチラと彼女を見ているが、あまりの神々しさに誰も声をかけられないでいる。 俺だけが「おはよう」と言える特権を持っているのだと思うと、少しだけ優越感がくすぐられた。
爽やかな朝とは裏腹に、放課後は予報外れの土砂降りになった。梅雨入り特有の、湿気を帯びた激しい雨。
部活が休みだった俺は、昇降口で立ち往生している華凜さんを見つけた。スマホを取り出すこともなく、ただ静かに雨を見つめている。お迎えの車は、急な雨で渋滞に巻き込まれているのかもしれない。
「一条さん、傘ないの?」
「あ、田中くん。……ええ、予報では夜からでしたから」
「じゃあ、駅まで入ってく? 俺、大きめのやつ持ってるし」
俺がビニール傘ではない、しっかりした骨組みの傘を差し出すと、華凜さんは少し驚いた顔をして、それからふわりと微笑んだ。
「……ありがとう。助かりますわ」
漫画やドラマでしか見たことのない「相合傘」というシチュエーションが、現実のものとなった。 傘の下は、世界から切り離された二人だけの空間だ。
雨音が周囲の雑音を消し去り、その分、隣を歩く華凜さんの気配が鮮明になる。夏服の薄い生地越しに伝わる体温。雨の匂いに混じって漂う、あの高貴な花の香り。
半袖から伸びる彼女の白い二の腕が、歩くたびに俺の腕に触れそうになる。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
少しでも気を紛らわせようと、俺は口を開いた。
「そういえばさ、今日の昼休み、神楽と図書室にいただろ」
昼休み、俺は見てしまったのだ。教室では誰とも話さない陰気な神楽と華凜さんが親しげに本を選んでいる姿を。あんな冴えないオタクと、高嶺の花の華凜さん。釣り合いが取れないにも程がある。
「あいつ、クラスでも浮いてるし、なんか暗い噂もあるんだぜ。一条さんが親切にするのはいいけど、あんまり関わると変な誤解されるかもよ? 一条さんの品位に関わるっていうか……」
俺は彼女を心配して言ったつもりだった。華凜さんのような完璧な女性には、もっと相応しい交友関係があるはずだ、と。
ピタリ、と華凜さんの足が止まった。
「田中くん」
傘の下で華凜さんが俺を見上げた。その瞳からは、朝の爽やかな光が消えていた。背筋が凍るような、冷徹な瞳。
「朔……神楽くんは、わたくしの大切な幼馴染ですのよ」
「え、あ、うん。それは知ってるけど……」
「彼の何を知っているとおっしゃるの? 見た目? クラスでの評判? そんな表面的なことで、わたくしの友人を侮辱しないでくださいまし」
静かな声だったが、そこには明確な拒絶と怒りが込められていた。
「あなたがそんな偏見を持つ人だとは思いませんでしたわ」
俺は息を呑んだ。
やってしまった。良かれと思って言ったことが、彼女の地雷を踏み抜いたのだ。
「ご、ごめん! 悪口のつもりじゃなくて、その……」
「もうよろしくてよ。駅に着きましたから」
いつの間にか、駅のロータリーに着いていた。 華凜さんは傘から抜け出すと、冷たい雨の中に一瞬だけ身を晒し、すぐに駅の屋根の下へと入った。
「送っていただいて助かりましたわ。ごきげんよう」
振り返りもせず、改札内へ消えていった。純白のセーラー服の背中が、これほど遠く感じたことはなかった。
その夜。22時15分。俺はベッドの上でスマホを片手に頭を抱えていた。謝らなきゃ。謝罪文を送ろうとして指が止まる。
『華凜さんルール』。夜10時以降、彼女はもうネットワークにはいない。どんなに後悔しても、焦っても、彼女に言葉が届くのは明日の朝7時以降だ。
(俺、何やってんだよ……)
神楽朔。あんな奴のために、華凜さんがあそこまで怒るなんて。嫉妬と自己嫌悪が混ざり合う。
でも、それ以上に俺の中に残ったのは、冷たい目で俺を射抜いた時の、華凜さんのゾッとするような美しさだった。怒った顔すらも綺麗だと思ってしまった俺は、もう完全に彼女の虜だ。
明日の朝、一番に謝ろう。
そして、もっと彼女のことを知ろう。
表面的な「高嶺の花」というイメージだけでなく、彼女が大切にしているもののことも。
そう決意して、俺はようやくスマホを置いた。
雨音だけが響く夜。俺の知らないどこかで、華凜さんも同じ雨音を聞いているのだろうか。それとも、もう深い夢の中にいるのだろうか。