5月に入り、校庭の桜はすっかり葉桜に変わっていた。 4月の痴漢撃退事件以来、俺と華凜さんとの距離は……正直に言って、劇的には縮まっていなかった。
挨拶はする。
「ごきげんよう、田中くん」
「おはよう一条さん」
たまに教科書の貸し借りもする。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけだ。 彼女は相変わらず教室の中心で燦然(さんぜん)と輝く「高嶺の花」であり、俺はそれを少し離れた席から眺める「一般生徒T」のまま。あの朝の、背中にしがみつくようなときめきの感覚は、まるで幻だったかのように鳴りを潜めていた。
そんな膠着状態が変わったのは、ゴールデンウィークが終わる頃だった。
俺は、部活用のスパイクを買うために渋谷の街へ出ていた。目当ての買い物はすぐ終わり、久しぶりに裏原宿を散策しようと遊歩道を歩いて 表参道に出た。
信号待ちをしていると、人混みの中の空気が変わった気がした。雑多な喧騒が、ある一点を中心にスッと引いていくような感覚。俺は何気なくその方向に目を向けた。
「……華凜さん?」
そこにいたのは、紛れもなく一条華凜さんだった。だが、俺の知っている制服姿の彼女ではなかった。 オフホワイトのワンピースに、淡いブルーのカーディガン。足元はヒールのあるサンダル。女の子の服には詳しくない俺でも、それらすべてがハイブランドの高級品であることが一目でわかった。

ショーウィンドウのガラスよりも繊細で、街ゆく誰よりも洗練されている。 彼女は背筋をすっと伸ばした凛とした姿勢で、一人で佇んでいた。
俺は声をかけようと、一歩を踏み出した。しかし、その足は空中で止まった。
近づけない。物理的な距離は数メートルなのに、彼女が纏う空気が、俺のようなTシャツにジーンズの高校生を拒絶しているように見えたのだ。
彼女は「女子高生」ではなく、「名家の令嬢」として存在していた。
一台の黒塗りの高級車が、音もなく彼女の前に滑り込んできた。運転手が素早く降りてきて、恭しく後部座席のドアを開けた。
彼女は慣れた様子で小さく頷き、豪華そうな車内へ身を隠す。
バタン、と重厚なドアが閉まる音が聞こえた。
俺は走り去るテールランプを唇を噛んで見送りながら、踏み出せなかった足を何事もなかったかのように引っ込めた。
「住む世界が、違いすぎるだろ」
わかっていたことだが、改めて突きつけられた現実に、俺は買ったばかりのスパイクの袋を強く握りしめた。
連休明けの月曜日。俺は少し憂鬱な気分で教室に入った。あの日見た光景が、俺の気力を根こそぎ削り取っていたからだ。席に着いて教科書を開く。隣の席の華凜さんを見る勇気が出ない。
「田中くん」
不意に涼やかな声が降ってきた。
顔を上げると、いつもの制服姿の華凜さんが、少し不満げに俺を見下ろしている。
「あ、一条さん。おはよう」
「一昨日、表参道にいらっしゃいましたわよね?」
心臓が跳ねた。
「え、気づいてたの?」
「当たり前ですわ。あなたがポカンと口を開けて立っているのが見えましたもの」
彼女はフン、と鼻を鳴らした。
「どうして声をかけてくださいませんでしたの?」
「いや……なんか、俺なんかが気安く話しかけちゃいけない雰囲気だったから。迎えの車も凄かったし」
正直に白状すると、華凜さんはきょとんとして、それからクスクスと笑い出した。花が咲くような、無邪気な笑顔だった。
「何ですの、それ。私服だろうが車だろうが、わたくしはわたくしですわ」
彼女は俺の机に手をつき、顔を近づけてきた。
「次は無視しないでちょうだい。……わたくしだって、学校の外で知ってる顔に会えたら、嬉しいんですもの」
上目遣いで囁かれたその言葉に、俺の憂鬱は一瞬で吹き飛んだ。単純だと言われようが構わない。この笑顔が見られるなら、俺は何だってできる気がした。
「わかった。次は絶対に声かける」
「お約束、ですわよ?」
華凜さんは満足そうに席に戻っていった。 ふと視線を感じて振り返ると、教室の隅で、華凜さんの幼馴染だという神楽朔(かぐら さく)がじっとこちらを見ていた。
無表情なその目は、華凜さんを見ているのか俺を見ているのかわからない。 俺と目が合うと、興味なさそうに手元の文庫本に視線を落とした。俺は神楽のことをすぐに忘れた。
やっぱり、俺は華凜さんに相応しい男になりたい。家柄はどうにもならないが、せめて学力や人間力で、あの黒塗りの車の隣に立っても恥ずかしくない男に。
その夜、俺はいつもより1時間多く勉強をした。 時刻は深夜0時を回っていた。
華凜さんにもうメッセージは届かない。彼女は美容と健康のために、夜10時には必ずベッドに入り、深い眠りについているからだ。そんなストイックで規則正しいところも、彼女らしくて好ましく思う。
俺が英単語を暗記している今、彼女はどんな夢を見ているのだろうか。きっと、汚れひとつない、美しい夢に違いない。