第18話:椿と鬼の烙印(前編)

 マカオの強い日差しが、ショーウィンドウのガラスに反射して眩しいほどでした。  

 地下の調教部屋から出た私は、久しぶりに吸う外の空気に少し目眩を覚えながら、鬼灯様の腕に手を添えて歩いていました。  
 行き交う人々は皆、華やかな服装で談笑しています。  

 その中を、私は背筋を伸ばして歩きます。  
 側から見れば、年の離れた裕福な恋人同士のデートに見えるかもしれません。  
 けれど、私の心臓は早鐘を打ち続けていました。
 これはデートではありません。
 私の「出荷」のための最終仕上げなのだと、身体の奥が理解して疼いているからです。

「まずは香りからだ。女の記憶は匂いで定着する」

 鬼灯様が私を連れて入ったのは、高級ホテル『ウィン・パレス』のショッピングアーケードにある『TOM FORD BEAUTY(トム フォード ビューティ)』でした。  
 黒とゴールドを基調とした重厚な店内。  
 鬼灯様は迷うことなく、深紅のボトルを手に取りました。

「『JASMIN ROUGE(ジャスミン ルージュ)』。妖艶だが、どこか毒を含んだ甘さがある。お前に似合いだ」

 彼はテスターを私の手首と、うなじに吹きかけました。  
 スパイシーなフローラルの香りが鼻腔をくすぐります。
 それはかつて、貞淑な妻だった私が選んでいた清楚な石鹸の香りとは対極にある、濃厚で官能的な「雌」の香りでした。  

 さらに、『リップ カラー マット』の鮮烈なルビーラッシュを選び、私の唇に指で直接塗りたくります。
「ん……」
「いい発色だ。口紅(ルージュ)は濃い方がいい。精液で落ちた時、その無様な乱れ方が客を興奮させるからな」

 店員の目の前で囁かれた恥ずかしい言葉に、私は頬を染めて俯くしかありませんでした。
 けれど、鏡に映る赤い唇の私は、以前よりずっと生き生きとして見えたのです。

 買い物の合間に、私たちは噴水ショーの見えるテラスレストランでランチを取りました。  
 予約されていたのは、ミシュランの星を持つフレンチレストラン。  
 真っ白なクロスの上には、芸術品のようなアミューズが並びます。

「口を開けろ」
「あ……ん……」

 鬼灯様がフォークで切り分けたフォアグラを、私の口に運んでくれます。  
 甘美な脂の味が舌の上で溶けました。  

 周囲の客は、優雅なカップルの戯れだと微笑ましく見ているでしょう。  
 でも違うのです。  
 これは「餌付け」。  

 私はテーブルの下で、太腿をぎゅっと擦り合わせました。
 高級な食材よりも、鬼灯様の熱い餌《ザーメン》でお腹を満たしたい……そんな卑しい渇望を必死に押し殺しながら、私は淑女の仮面を被って微笑みました。

「美味しいか? たっぷりと栄養をつけておけ。夜になれば、嫌というほどカロリーを使わせてやる」

 意味深な言葉に、子宮がキュンと収縮しました。

 ランチの後は、いよいよ「中身」の支度です。  
 連れて行かれたのは、イタリアの至宝と称されるランジェリーブランド『La Perla(ラペルラ)』のブティックでした。  
 肌触りの良いシルクや、繊細なリバーレースが施された宝石のような下着たち。  
 かつての私は、ワコールやトリンプの実用的な下着か、精々デパートで買うサルートが関の山でした。こんな、一着で数万円もするような芸術品を身につける日が来るとは……。

「これと、これだ。サイズは分かっているな?」
「はい、鬼灯様」

 選ばれたのは、『Maison(メゾン)』コレクションのブラック。  
 フラスタリオと呼ばれる伝統的な刺繍技法が施された、ラペルラを象徴するシリーズです。  
 しかし、鬼灯様が選んだのはただのセットではありませんでした。  

 ブラジャーは、バストトップが透けて見えるほど薄いノンパテッドのレース。  
 ショーツは、サイドが紐一本で繋がれたTバック(ソング)。  
 そして、太腿を飾るためのガーターベルト。

 試着室に入り、服を脱ぎ捨てます。  
 鏡に映る私は、全裸に黒いレースを纏っただけの姿になりました。  
 黒いシルクが、白磁のような肌に吸い付くようにフィットします。  
 高貴で、優美。  
 けれど、その布面積はあまりに少なく、隠すべき場所は透け、食い込んだクロッチが秘裂の形をくっきりと浮き上がらせて、私の「用途」をあからさまに主張していました。

 ガチャリ。

 鍵をかけていない試着室のドアが開き、鬼灯様が入ってきました。  
 狭い個室に、男の匂いとトムフォードの香水の香りが充満します。

「悪くない」

 鬼灯様の冷たい指が、レース越しの乳首をなぞりました。  
 ビクッ、と背筋が跳ねます。

「高級な包装紙だ。中身が安っぽい牝豚でも、これを着ければ極上の商品に見える」
「あっ……はぃ……っ」
「勘違いするなよ。これは俺が楽しむためじゃない。客がこの薄い布を破り、汚すための演出だ」

 耳元で囁かれながら、ガーターベルトの留め具をパチン、と弾かれました。  
 その屈辱的な言葉さえ、今の私には最高の賛辞に聞こえます。  

 私はこの高級なレースを、精液で汚されるために着るのです。
 そう思うと、試着室の中で蜜が溢れ出し、新品のクロッチを汚してしまいそうでした。

「さあ、次は外側だ。お前の『正装』を選びに行くぞ」

 下着を身につけたまま、私たちは次の店へと向かいました。  
 最後に訪れたのは、『Saint Laurent(サンローラン)』のブティック。  
 エッジの効いた、官能的で力強いモードブランド。  
 鬼灯様が店員に指示し、奥から運ばれてきたのは、漆黒のイブニングドレスでした。

「着てみろ」

 再び試着室へ。  
 ラペルラの下着の上から、そのドレスに袖を通しました。  
 滑らかなベルベット素材。  
 正面から見ると、首元まで詰まったハイネックで、長袖。露出は一切なく、まるで修道女のように禁欲的でエレガントなデザインです。  
 しかし――。

「後ろを向け」

 鬼灯様の命令で振り返り、私は鏡越しに自分の背中を見ました。  
 息を呑むような光景でした。  
 背中は首の付け根から腰のくびれ、いえ、お尻の割れ目が見えそうなほど際どい位置まで、大胆にカットされていたのです。  
 白い背骨のラインが、闇の中に浮かび上がるように晒されています。

 さらに、スカート部分。  
 歩き出そうと足を一歩踏み出すと、左太腿に入った深いスリットがぱっくりと割れ、脚の付け根までが露わになりました。  
 ガーターベルトの金具と、黒いストッキングのレースが、瞬きするような一瞬だけチラリと覗くのです。

「これが娼婦としてのお前の『正装』だ」

 鬼灯様が満足げに頷きました。

「服を着ている時は、誰よりも気高く、近寄りがたい貴婦人を演じろ。男たちはその禁欲的な布の下に、どれほど淫らな肉体が隠されているかを想像して猛り狂う」

 彼は足元に跪き、私の足に『Christian Louboutin(クリスチャン ルブタン)』のピンヒールを履かせました。  
 高さ12センチのスティレットヒール。  
 その裏側は、血のように、あるいは完熟した果実のように赤いレッドソールです。

「そして、脱いだ時は……」

 鬼灯様の手が、スリットから太腿の内側へと滑り込みます。  
 ザラリとした指先が、ラペルラの極薄のショーツの上から、私の秘所を弄りました。

「んっ……! あぁ……っ!」

「脱いだ時は、ただの穴だ。高価な布も、宝石も、すべては男を受け入れるための装飾に過ぎない」

 鏡の中の私は、サンローランのドレスとルブタンのヒールで武装し、どこかの国の王妃のように見えました。  
 けれどその瞳はとろんと潤み、股間は主人の指に弄られて、だらしなく涎を垂らそうとしています。

 これが、私の正装。  
 高貴な聖女の皮を被った、卑しい牝豚。

「では、最後の仕上げにかかるとしようか」

 鬼灯様は私の濡れた指を舐め取り、邪悪な笑みを浮かべました。

「お前に、一生消えない『所有の証』……極上の値札を刻んでやる」

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